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ノモンハン事件3・壊滅的打撃を受けたのは関東軍ではなくソ連軍だ・『ノモンハン事件の真相と戦果―ソ連軍撃破の記録―』小田洋太郎・田端元共著(有朋書院、2002年)・第2次大戦見直しに反発=ロ大統領



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ノモンハン事件2
壊滅的打撃を受けたのは関東軍ではなくソ連軍だった!
『ノモンハン戦場日記』ノモンハン会=編(新人物往来社、1994年)
第2次大戦見直しに反発=ノモンハン事件70周年-ロ大統領
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のつづき




第2次大戦見直しに反発 ロ大統領

http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2009082600778

第2次大戦見直しに反発=ノモンハン事件70周年-ロ大統領

 【モスクワ時事】ロシアのメドベージェフ大統領は26日、モンゴルの首都ウランバートルで1939年の満州・モンゴル国境紛争、ノモンハン事件(ロシア側呼称「ハルハ河事件」)70周年記念行事に出席、第2次大戦の歴史の見直しを容認しない姿勢を強調した。
 インタファクス通信によると、メドベージェフ大統領は演説で、「戦いで日本の関東軍は壊滅的打撃を受けた」とし、同事件でのソ連側の勝利が第2次大戦全体の行方にも影響を与えたと指摘。その上で、「この勝利の意味を変更するような捏造(ねつぞう)は容認しない」と強調した。 
 メドベージェフ大統領はエルベグドルジ・モンゴル大統領とともに、事件当時の現地司令官だったジューコフ・ソ連軍元帥の記念碑に献花。戦闘に参加したソ連、モンゴル両軍の元兵士らに勲章を贈った。
 ロシアの国家元首がノモンハン事件記念行事に参加するのは初めて。ロシア政府筋は「欧州で第2次大戦の歴史を見直す動きが出ているため、メドベージェフ大統領はノモンハン事件記念式典に参加し、ソ連の正当性を主張することを決めた」と述べた。
 今年は独ソ不可侵条約締結70周年にも当たり、欧州では同条約がナチス・ドイツのポーランド攻撃を可能にしたとして、第2次大戦開戦へのソ連の責任を問う声が高まっている。欧州議会は条約が調印された8月23日を「ナチズムとスターリニズムの犠牲者追悼記念日」に指定することを提案、ロシアが猛反発していた。(2009/08/26-21:20)
――――


>メドベージェフ大統領は演説で、「戦いで日本の関東軍は壊滅的打撃を受けた」とし、同事件でのソ連側の勝利が第2次大戦全体の行方にも影響を与えたと指摘。




ノモンハン事件は、関東軍も苦戦したが、ソ連軍の被害は関東軍を遥かに上回っていた。
壊滅的打撃を受けたのは関東軍ではなくソ連軍だった!
スターリンは大損害に耐えかね、停戦に焦っていた。


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『ノモンハン事件の真相と戦果 ―ソ連軍撃破の記録―』小田洋太郎・田端元共著(有朋書院、2002年)

第1部 総論篇

 ノモンハン戦がなぜ起きたか、なぜこの荒野で戦う必要があったか、それはソ連が国境侵犯したからである。
 多くの筆者は、これに応戦した日本の対応を批難するが、一方、ソ連の満州領土への爆撃やら、ソ連の唱える国境線からでも20キロ以上入った将軍廟への侵入を含むソ連側の国境侵犯を正しい、とは述べていない。
 日満議定書で約束した満州防衛の責任を果たすべく、日本側が応戦したのは正しい対応だったのである。

 日本の対ソ戦回避方針はゾルゲ・尾崎秀実らのスパイ行為でソ連には知られていたが、ソ連は平和策に非協力で、これを利用して進入したソ連の行為を批判せねばならない。


1937年
 ノモンハン事件の前に大粛清が起きた。外蒙人は日中戦争が始まったので、これを機会に、日本軍が内蒙古に進駐したら、これを外蒙古に招き入れる事を計画し、蜂起すれば、満州の蒙古人や日本が援助すると考え、蜂起の指令書を出したがソ連派の手に入り、ソ連軍が介入して、ゲンデン前首相を始め、その他、マルヂー参謀総長、外相、商務相、保険相、司法相、教育相、郵政相、経済相、軍団長2名、師団長6名、士官学校長、その他の将軍や将校、ラマ僧侶2千人などが処刑され、その他2万6千人が死刑になった。当時の外蒙古の人口が80万人であるから30人に一人で大変なもので、過去から通産すると人口の約6%、17人に一人が消された。これがソ連統治の実際で後にもバルト三国で見られた悲劇である。
 8月、国防相デミドは喚問されて、モスクワへの列車中で撲殺された(婦人の目撃談)。当時、デミドは日満攻撃派であり、ソ連はこれを押さえていると、もっともらしくソ連は言ったものである。殺害された第2軍団長ダンバー将軍の遺志で真相を伝えるべくビンバー大尉は満州へ脱出し、手記を発表した。家畜の増加を上回る駐留ソ連軍の徴発や外蒙兵士の対ソ破壊行為、外蒙人将校にはソ連共産党員の学問ある女性と結婚させ、夫を操る事も分かった。また、ソビエト国内でも大粛清があった。


1939年
1月以来、国境紛争が続発した。これはチョイバルサンが国境紛争の責任をアモル首相に問う為に起こしたものとも言われる(ァモルは3月に逮捕、後に銃殺)。今日のモンゴルでは、故チョイバルサン(後に元帥、首相)の批判がされている。
 これらの経緯から、ノモンハン事件はチョイバルサンの政権欲で起きたと見られていたが、今日、スターリンの指示で行なわれた事が判明している。
 牛島康允氏のノモンハン事件発生前における外蒙の政情説明は貴重であり、「スターリンにとっては国境線を数キロ前進させるというケチな問題ではなく、外蒙全体を失うか否か否かの問題だった」(「蒙古50年の夢」)の見解は的を射ている。
 即ち、放牧の水資源や草原を争う問題ではなく、ソ連は、外蒙に兵を入れて反乱を防ぎ制圧を果す必要と、外蒙を足場に満州国に侵入する足場として、国境紛争を起こしたのである(ロシアの外蒙経由の明治44年来の構想である)。(参考)当時、外蒙は国境から30キロを無住地帯にしていたから、畜産上の必要はないし、数キロを何の為に執拗に争うのか日本側はその目的が分からず、中国への支援説、天津事件での英国への支援説、粛清後の威信回復説、国内不満の解消説、その他で困惑していた。
 後述するが、バルト三国での経過を見れば分かるが、ソ連は国境紛争を自ら起こして、その国を制圧するのを常套手段としており、これは、その最初の例である。
 また、クックス氏は「ソ連は自らの唱える国境で進撃を受け止めた。領土拡張の意図はなく、防衛線まで国境を動かしただけ」(「ノモンハン50年目の証言」西日本テレビ)など、ソ連の国境認識が正当なように述べているが、これは、日本軍の終結を知り、今までの大損害から日本軍の本格的戦闘を恐れて進撃をしなかった事情と、ポーランド侵攻を目前に停戦をする必要があった事、それにモンゴルの主体性を無視した考察不測にすぎない。

 NHK・TV(「ノモンハン事件60年目の真実」平成11年8月17日放映。鎌倉英也著「ノモンハン隠された『戦争』」)は、ナチのポーランド侵入に対抗してポーランドに入ったものであり、その以前に東方安定の為に外蒙の粛清とノモンハン事件を起こしたので、正当であるかのような解説をしていた。当時、スターリンはヒットラーを尊敬し、彼の情報で赤軍幹部の粛清を行い、協力してポーランド分割を行なったもので、ソ連のポーランド進攻や外蒙制圧に正義はなく、侵略性を伝えないNHKの姿勢はポーランド人の被害を無視するものでポーランドに対して礼儀を失するもので


第一次ノモンハン事件

 昭和14年(1939)5月4日、外蒙兵がノモンハン地区を襲撃した。第一次ノモンハン事件の始まりである。しかし、航空戦でソ連機は大損害を受けた。ソ連側は5月31日までに180機を失ったが、日本側の損害は0で、ソ連機には戦闘禁止が命令された。

 地上戦でも猛烈な抵抗にあい、ソ連側は自国領地と称する侵入地を確保できず侵入軍をハルハ河左岸に引揚げた。日本軍の損害は290名、ソ連側は当時の公式発表では110名だが(鎌倉氏NHK資料では184名)、牛島氏によると600名以上である。

 また、飛行機も河越を禁止された。これで、ソ連側に越境の認識があったのが分かる。日本側はこれで収まったと思っていたが、本格的介入に踏み切ったソ連はジューコフ中将を新しい司令官に任命した。飛行機を増加し、訓練を行い、第二次の侵犯事件を起したが、実は、6月に外蒙古で反革命蜂起があり、タムスク西南、アルハンガヤ、マイマーク、セラリック付近で1千余名が党、政府機関を襲撃した事件がある。「離反する民心を抑えるため(一層の外蒙制圧をソ連は必要として第二次侵犯を起したか)」(樋口紅陽)。と、日本側で真意を疑っていた。

 (参考)ジューコフ就任に至る事情を記すと、極東特別軍は60万名で、ブリュッヘル元帥が10年余をかけて作ったものである。ブリュッヘル元帥は、ソ連軍が大損害を蒙った張鼓峰事件の報告でモスクワに行き、「軽率なる挑戦と作戦の不手際」を口実に列車内で逮捕、投獄され、彼はルビヤンカの獄中で自殺した(その他、シュルテン極東方面軍参謀長、リチャゴフ空軍司令官等の粛清が伝えられたが、シュルテンは復活)。その直後に、スターリンの指示によりチョイバルサンが起こした第一次ノモンハン事件となり、こ
こでも苦戦となった。ソ連の外蒙駐屯軍は特別狙撃第57兵団で、兵団長はフェクレンコ中将だった。特別とはソ連国防人民委員直属の部隊で、言うなれば陸軍大臣直属軍である。フェクレンコ中将は当然、張鼓峰事件でのブリュッヘル元帥の処分を知っており、また、モンゴルでの治安態勢もあり積極的に対日行動がとれなかった。それを口実に解任されジューコフが新任したのである。到着は5月25日か29日の間らいい(鎌倉英也氏)。これはソ連の侵略の計画性を示すものである。
―――――


つづく







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ノモンハン事件1
壊滅的打撃を受けたのは関東軍ではなくソ連軍だった!
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ノモンハン事件とは
ノモンハン会事務局長   阿部 武彦


勃発の原因

ノモンハンから15キロほど西南に下がったハルハ河を外蒙軍が渡河し満州国軍警備隊とぶつかった、(中略)・・・。現地の連隊長級以下は、ハルハ河の線が国境だと確信していた。故に第1線将兵は命懸けで国境を守ったのである。モンゴル側の主張する国境が別にあると聞いたのは、「ノモンハン」事件が終わった後のことである。現地に立ってみると(今までに5回、戦場で慰霊祭を実施、私も平成2年以来4回慰霊祭のため現地を踏査)広漠とした大草原と砂丘地帯ではやはりハルハ河の線が一番判りやすい国境線だと、我々は痛感した。

「ノモンハン」事件直前まで、ハルハ河近くに満州国軍の国境警備隊哨所が点在し、偵察のための騎馬旅行も平穏裏に実施できた。外蒙古人民共和国から外交的抗議も聞かれなかった。(満州里会議で議題に上がった由、後聞)この既成事実が、モンゴル軍の攻撃で突如破られたと言うのが、第一線将兵の偽らない所感であった。


戦闘、日ソの違い

概括すれば、「勝ったとは広言しないが、決して負けてはいない、1勝1敗と言えるが、やられた時に停戦となって残念だ」と言うのが実感である。巷間で流布されている「戦車に38小銃では話にならぬ」「日本軍が手も足も出せずに大敗した」等の説は、参戦していないで、日本の悪口を言う事に快感を感じる種類の人の妄言である。稀に8月下旬のみの参戦者の中には「火炎戦車に焼かれ、とても酷い戦いで、大敗した」との感想を持つ人がいても仕方がない。8月20日~31日の間に限って観察すれば、戦力差があまりにも隔絶したため、日本軍の精強を以ってしても、抗すべくもなかった。しかも、勇敢な軍隊程守地を死守するので、殲滅的打撃を受けがちであるのは、古来戦史の物語る所である。大局を見極めて、適時撤退を命ずる名将が、現場に居合わせなかったのが不運であった。又「ノモンハン」事件の観察研究が8月下旬にのみ偏り、7月上旬、9月上旬の戦況が霞んでしまっているので私の実感を信用する人は少なく、少数意見となっているのは誠に残念で、奮戦して戦死された英霊に対して顔向けができない。

若干の戦例を述べる、7月3日外蒙台上において対戦車不規遭遇戦が展開された。小林兵団(歩71・72連隊基幹)は、約15キロ南下する間に、数回対戦車戦闘を交えたが、ソ軍11戦車旅団・7装甲旅団などの戦車・装甲車に対し、少なくとも150台以上の損害(破壊・炎上・擱座)を与えて撃退し、約1ヶ月間行動不能に陥らせた。連隊は12門の九四式速射砲(固有4と増加配属8)を主力に、一部肉迫攻撃を加えて戦果を収めた。発射弾6発で次々に5台を炎上させた本多分隊が、砲側で観戦していた辻参謀から現認證を受けたのもこの日の戦である。この速射砲は精度もよく、発射速度に勝れ当時の水準で世界屈指の対戦車砲であった。只口径が37ミリのため、8月下旬戦場に現れた新型敵戦車(T-34、改BT?)の厚い装甲部位を貫徹できなくなったのも事実である。又、九〇野砲8門の独立野砲一連隊が、二十三師団に配属されていたが、この部隊は機動力に優れ全戦線を迅速に移動して、対戦車戦闘はもちろん長射程力(14,000メートル)を活かして暴れ捲った。従って、この連隊では全員「ノモンハン」事件で負けた、とは思っていない。

7月14日には全戦線で、敵を圧倒しわがほうの主張するハルハ河の線を、確保したが、地形上、目の上に外蒙の台が乗掛るように迫り、(比高5~60メートル)見下される。この不利を除く為、同一高度のノロ・バルシャガル高地の線まで、約4キロ後退するよう命ぜられた。残念だったが、地形には勝てないと思った。

9月上旬、二十三師団は殆どの戦力をうしなってノモンハン付近に集結したが、その東南地区(ハンダガヤ~将軍廟の線とハルハ河の間の地域)においては、七師団と後続新鋭兵団(一師団・二師団の一部等)の奮戦により、外蒙古人民共和国が主張する国境線を、はりかにおし込んだ為に、事件後の国境劃定で、この地区を満州国(現中国)領とすることとなった。換言すれば、国境紛争の結果は、領土上両者痛み分けの結果となっている。

日ソの実力はと聞かれると、戦場に集中した戦力には、格段の差があった。中国大陸に百万の大軍を注ぎ込んでいた日本軍は、僻地の国境紛争に兵力・兵站能力を割く余裕は全く持っていなかった。換言すれば国家レベルの政略・戦略ではソ連の方が優位にたっていた。当時列強諸国は国力に比して、過大な軍備を保有していた。なかでもソ連・ドイツ・日本は、その優なる国であったと言える。

航空機の性能  戦闘機では日本が遥かに勝れていた。爆撃機はトントン、であったが、総機数において10倍、集中能力でもソ連に及ばなかった。制空権の鍵を握る撃墜率では7月中は、15対1位で日本軍が優位に立っていたが、8月に入ると8対1位に低下して行き、航空機、人員とくにパイロットの損耗が累積してしまい8月下旬には制空権を奪取されてしまった。

戦車は比較にならないほど、数量・性能共に劣勢で、機甲部隊並びに軍機械化も完全に日本は立遅れていた。武器においては、重機関銃と重砲の性能はわが方が優れていた。しかし、遺憾ながら、数において十数倍の差は、個々の性能を粉砕してしまうものである。

日本軍の優れていたところは、夜間行動、白兵戦闘(突撃)であった。このため8月以降、夜間は日本軍、昼間はソ連軍といった図式になった。経済力のないその頃の日本軍としては、諸々の制約下に、良くやったものだといえる。



問(8)数多くの教訓を得た由だが、その内容は?

(若干例示をするに止める)
a、
兵力の逐次使用をしてはならない。国境紛争のような局地戦では、戦力を小出しに使用する幣に陥りやすいものである。
b、
地形に適合した、機動力を装備した部隊を使用する。(この戦場では騎兵、機械化部隊等の機動力が絶対必要である。この教訓に基づき、南方作戦では歩兵を、自転車部隊に編成変えして、開戦当初に偉功を奏した)
c、
砲兵の機械化と長射程化(二十三師団は「ノモンハン」事件後、90野砲と、15榴(機械化)に改編された。第2次世界大戦後は、各種ロケット砲が普及した為、長射程砲の装備・重砲の射程延長競争は止った)
d、
「百発百中の砲一門は、百発一中の砲百門に勝る」と言う事は明瞭に誤りである。すなわち精神力にも限界があり、圧倒的な物量は、精神力を圧倒することが多い。ある程度の物量の裏付けのない精神力は、儚いものである。
e、
戦場で損耗補充を実施する場合、個人単位ではだめで、部隊単位が望ましい。貧乏だった日本軍は、部隊毎後方に下げて交替で休養させる余裕は無かった。したがって激戦中の第一線に、個人毎に補充したので到着したその日に戦死するという事態が起こり、戦力にならないことが多いのを知った。そこで「ノモンハン」事件後、「安全な後方で分隊長以下(あるいは小隊長以下)を編成し、上下の団結を固めて、その分(小)隊のまま補充すると、その日から戦力になる」との教訓を得た。(大東亜戦争ではこの教訓を生かし、補充連隊を数個編成して、戦地に派遣、訓練を重ねながら、第一線に続行、単位部隊毎で損耗を補充し、戦力を維持した)
f、
奇想天外な情報、又は我方に具合の悪い情報を見逃してはならない。(8月攻勢に備えるための、敵戦力の集中を見誤ったのは、日本軍の常識で見積もったが故である。「兵站の大動脈を船舶とし、港或は卸下駅より200キロ以上に、2個師団異常を維持するのは困難」と信じられて居た。ソ連は鉄道末地から700キロ以上の戦場に、8個師団[日本軍換算]以上の戦力を、短期間に集中した。その決め手は、自動車輸送を兵站の大動脈にすることが出来るだけの、自動車・燃料・道路等の準備ができたと言う事に尽きる。所詮、馬で動く大陸と、船で運ぶ島国との国民性に基づく、考え方の相違に因るものか)
g、
『集中の原則』は物質的戦力のみでなく、上下の思想、精神力の集中にも適用されるべきである。(「ノモンハン」事件における、わが方最大の欠陥は、大本営と関東軍間、第六軍司令部と第一線各指揮官との間に一部、思想の統一・共通の意識・同志的結合を欠いた点が在ったことである)
h、
戦術思想、戦法において日本軍は、創意工夫に乏しく、マンネリに陥って居た。中国軍や、土匪と戦って戦勝を重ねてきたため、心のおごり、変化に素早く適応出来ない体質になっていたのではないだろうか。


731部隊「関東軍防疫給水部」について
実態について殆ど知らないが、戦場において次のような行動があった。

防疫給水について大活躍し恩恵を受けた。砂質広漠地故、水に乏しく、ハルハ河は敵の火制下で利用困難、唯一の水源であるホルステン河(水流部3~5メートル、水は濁っているが水源が泉故、枯渇することはない)工兵橋に大型濾水機を設置して、全第一線部隊の給水源としての大役を担当した。この濾水機は細菌のみならずリケッチャまでも排除できた。

「ノモンハン事件」の間に一度「ハルハ河で腸チブス菌が検出された。ソ連が上流で投下した疑が在るので、防疫給水部の水以外を飲用しないように」との注意があった。

ハルピン郊外に駐屯して防疫給水と伝染病の研究をしている旨の文書をみたことがある。元来防疫給水を任務とする部隊であるが、細菌戦の攻防にまで研究範囲が拡大していくのは、各国共通の成り行きであろう。細菌戦の恐ろしいのは、フラスコ一本であっても、大きな効果を収めることが可能であり、隠密裏に使用しやすく、一般の伝染病と判別困難なことである。しかしながらノモンハンには住民もおらず、地勢・気候も不適で彼我ともに、細菌を使用していないことを断言できる。

『ノモンハン戦場日記』
ノモンハン会=編(新人物往来社)1994年10月15日
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第2次大戦見直しに反発 ロ大統領

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第2次大戦見直しに反発=ノモンハン事件70周年-ロ大統領
8月26日18時34分配信 時事通信

 【モスクワ時事】ロシアのメドベージェフ大統領は26日、モンゴルの首都ウランバートルで1939年の満州・モンゴル国境紛争、ノモンハン事件(ロシア側呼称「ハルハ河事件」)70周年記念行事に出席、第2次大戦の歴史の見直しを容認しない姿勢を強調した。
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>メドベージェフ大統領は演説で、「戦いで日本の関東軍は壊滅的打撃を受けた」とし、同事件でのソ連側の勝利が第2次大戦全体の行方にも影響を与えたと指摘。その上で、「この勝利の意味を変更するような捏造(ねつぞう)は容認しない」と強調した。




捏造していているのは、メドベージェフの方だ。
ノモンハン事件は、関東軍も苦戦したが、ソ連軍の被害は関東軍を遥かに上回っていた。
壊滅的打撃を受けたのは関東軍ではなくソ連軍だった!
スターリンは大損害に耐えかね、停戦に焦った。


1939年8月15日、ソ連はドイツ大使に仲介を打診し、かつて独が提案し、ソ連が避けていた独ソ不可侵条約を提案した。

20日、ソ連側は停戦交渉に持ち込むために大攻勢を開始したが、戦況は進展せず(後述の井置部隊などから大損害を蒙り、予備兵力はなくなっている)、一方、日本の大使は無表情で、何ら交渉を申し出なかった。

22日、利権問題で会見の時にソ連側は焦って、「日ソ国交正常化はソ連の最も希望する所、国境問題につき具体的提案があれば検討する」と停戦を申し込み、

23日、独ソ不可侵条約締結。日本を驚かせたが、スターリンはリッペントロップに対日関係を好転させたいからドイツの援助を頼むと言い、如何にスターリンがノモンハン処理に焦っていたか分かる。

24日、日本軍の反撃開始予定日だったが、ボロジエイキン少将によると、「日本軍は10ヶ師団を集結中で補給線は日本有利だった。これはヒットラーの急速な進撃と無関係ではない」と推測した。1ヶ師団の日本軍でもてこずっているのに10ヶ師団も来られては大変と、スターリンは震え上がった。

そして9月早々、ソ連はドイツ大使に停戦工作を開始したのである。



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『ノモンハン戦場日記』
ノモンハン会=編(新人物往来社、1994年10月15日)

9月14日 木 曇後晴
 出発準備に忙しい。而し皆元気よく整備した甲斐があって全軍集結終り、攻勢全く整ひ今はただ前進命令を待つばかりと成った。
 中隊長以下士気益々旺盛にして必勝の信念を堅持す。今、敵味方不気味の休戦である。
 友軍は夜間前進して行動を開始したと伝へられる。

9月15日 金 晴
 敵味方の砲声少なく、我が陣地も更に発射命令なし。然し、余り命令が来ないので、不思議である。
 朝夕の涼しさは、又、別のものなり。

9月16日 土 晴
 午前8時、突然、停戦の命令を軍より受く。
 意外な事に驚き、振り上げた手のおろし場に困るとは此の事である。攻撃準備全く成り一同張り切って居たのに、どちらが先に停戦を申し入れたか不明だが、協定するしないは今後の事。
 昨日から個人の兵器、火砲の属品、部品、被服等の検査で多忙。

独立野砲兵第一連隊第一中隊第四分隊
五番砲手陸軍砲兵一等兵 成澤 利八郎


9月11日
 補充要因到着、榎本見習士官外十数名が中隊所属。総攻撃を前に人員補充もなり、全員の士気溢れんばかりなり。新たなる要員は殆ど初陣にて元気一杯なり。要員と共に故郷よりの便りも届く。

9月15日
 此の度の戦斗に於て、我が90野砲の、関東軍は云ふに及ばず、敵も感歎したであろう。赫赫たる戦果に就て敢て書く事もない。世界に誇る90野砲もを逐次増強せん為、宮崎隊の編成も考慮され、補充要因と共に来る。車輌も到着。此の度の総攻撃には新中隊の完結、奮戦の様が展開されるのであり、我が部隊も三ヶ中隊となり、今後の戦斗にも益々威力が発揮されるのである。
 完勝祝ひも戦場で朗らかに行なはれた。バルシャガル大草原の上を流れる唄、あァ何と朗らかな戦場であらう。

9月16日
 本日午前8時、停戦協定成る。
 5月初め、第一次ノモンハン事件始まるや戦線更に拡大し、第二次ノモンハン事件へと進展せり。然るに激戦三月、遂に我が軍は目的達成は期し得ずして、此の地に待機せり。兵力増大し態勢を整へて、一大決戦に臨まんとす。本事件が尾を引いては或は日ソ開戦となるやもの危惧なしとは、云い切れざりしも今こそと、復讐戦に燃えて居た。勇士の士気は猛虎の如くに漲って居た。
 茲、外交戦に於て協議が重なり、遂に停戦となり、戦斗行為は中止の止むなきに至る。甚だ残念の至りと云ふ外なし。

独立野砲兵第一連隊第一中隊
観測小隊 陸軍上等兵 田中誠一


9月1日
 夜になり陣地変換。満軍の兵站より13粁後方の地点。今後の総攻撃準備と休養との事。今迄は二箇師団対十箇師団。今後の総攻撃は五箇師団対十箇師団だそうだ。今度は亡き戦友の仇を討つのだと、皆が語り合ふ。

9月16日
意外にも停戦協定になってしまった。全く残念だ。

野戦重砲兵第七連隊第一中隊段列
増田 金之助
(昭和13年徴集)



ノモンハン事件とは
ノモンハン会事務局長   阿部 武彦

ノモンハン事件は近代戦のはしりであったが、コンパクトな戦闘であった為と、それまで常勝を誇った、陸軍上層部が、嘗めた初めての苦杯であったので、直後の処理を誤り、秘匿主義を取った。ために55年経た今日でも、真相が伝わらず、従って現在この事件に関し誤った見解を持つ戦史研究者も多く、著作も跡を絶たない。ノモンハン会は、参戦者が生存している内に、世上に流布されている誤りを正し、後世に伝える義務を持つ。(平成3年5月東京において行なわれた「ノモンハン事件国際学術シンポジウム」に積極的に参加したのもこの趣旨からである)
注  比較的長期間(5月27日~8月28日)歩兵将校として戦場の第一線におり、ソ連兵と白兵格闘も経験した、私の体験からみて、比較的に公平で正確と思われる文献は以下のとおり。

(1)戦史叢書(27)『関東軍<1>』防衛研修所戦史室編 750ページ 朝雲新聞社(電03-3436-0286)発行 定価 5,500円

(2)『ノモンハン』上・下巻(原名『草原の日ソ戦1939』)各430ページ アルビン・D・クック博士著(サンチェゴ州立大学教授、歴史学者)朝日新聞社発行 定価 各3,100円 朝日文庫全4冊

(3)『ノモンハン・ハルハ河戦争』国際学術シンポジウム全記録(1991年東京)原書房発行(電03-3354-0685) 定価 3,800円


『ノモンハン戦場日記』
ノモンハン会=編(新人物往来社)1994年10月15日
―――――


つづく






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報ステの歴史偽造と虚偽報道を指摘した拙ブログ記事が「朝鮮日報」に取り上げられた!・■動画「閔妃暗殺事件 日韓114年後の氷解」(報道ステーション)・暗殺の首謀者も実行犯も日本人ではなく朝鮮人だった!
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「朝鮮日報」(韓国語)に掲載された拙ブログの画像


「朝鮮日報」(韓国語)が、拙ブログの『「報ステ」で閔妃暗殺の虚偽報道!』の記事について取り上げ、その「朝鮮日報」(韓国語)の記事をソースにして、2ちゃんねるでスレが立っていた。



【日韓】 報道ステーション「明成皇后弑害事件」報道、日本ネチズン批判「歴史偽造、虚偽報道だ」★2[08/25]
1 :蚯蚓φ ★:2009/08/26(水) 11:33:04 ID:???

http://image.chosun.com/sitedata/image/200908/25/2009082500856_1.jpg
http://image.chosun.com/sitedata/image/200908/25/2009082500856_2.jpg

日本のテレビ朝日が看板番組の「報道ステーション」で24日午後、明成(ミョンソン)皇后殺害事件を特集して放映した。2005年NHKが放送したチョン・スウン監督のドキュメンタリー「110年ぶりの追跡、明成皇后殺害事件」を土台に製作したことが分かっているこの番組は約10分間放送された。

「報道ステーション」は景福宮(キョンボックン)にある明成皇后殺害遺跡の画像を見せた後、明成皇后殺害犯の子孫、河野龍巳(87)氏と家入恵子(80)氏が2005年に訪韓し、明成皇后の子孫に会って、謝罪する姿を放映した。この番組はまた「軍隊を伴った日本人暗殺集団が朝鮮皇宮に侵入し、明成皇后を殺害。その殺害犯の子孫は80年を超えて洗い流せない罪に苦しんでいる」と報じた。

キャスターの古舘伊知郎氏は「国が強い国になろうとして他国に入っていく。そして戦争すると必ずこういう悲劇が起きてくる。やはり韓国の人たちの深い恨みというのは急に氷解しないと思うんですね。
だからこそ日本も認めてこうして民間レベルで動いて、まず手を取り合うということは良いことですね。」と話した。

放送されるや日本ネチズンらの中には「歴史偽造、虚偽報道だ」「皇后を殺害したのは他でもない朝鮮人らだった」という主張をする人もいた。また一部ネチズンらは自分たちのブログにこの放送内容をアップして反対署名を集めている。
ソース:朝鮮日報(韓国語) 日本朝日TV '明成皇后弑害事件' 報道論難
http://photo.chosun.com/site/data/html_dir/2009/08/25/2009082500945.html?Dep0=chosunmain&Dep1=news&Dep2=headline1&Dep3=h1_06

関連サイト:http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/41677855.html

関連スレ:【日韓】明成皇后殺害事件を報じた日本のTV局[08/25]
http://yutori7.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1251172048/
【日韓】日本の‘恥ずかしい歴史’明成皇后殺害事件 24日報道ステーションで特集放送★5[08/24]
http://yutori7.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1251150885/

前スレ:http://yutori7.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1251201874/
★1の立った時間:2009/08/25(火) 21:04:34



閔妃暗殺事件に関しては、首謀者が大院君で、実行犯が禹範善ということが判明している。首謀者も実行犯も朝鮮人であり、三浦公使ら日本人はそんな朝鮮人たちに少し手を貸したに過ぎなかった。この真実の主張と「報ステ」の歴史偽造&虚偽報道についての指摘が少しでも多くの人々に知られることは非常にうれしい。
ただ、「ネチズン」と呼ばれることについては違和感を覚えずにはいられない。

「報ステ」の放送の動画があった。

■動画閔妃暗殺事件 日韓114年後の氷解(1)


1895年10月8日早朝、軍隊を伴った日本人らの一団が宮殿に侵入し王妃を殺害した。河野龍巳(87歳)は、母から祖父が閔妃(明成皇后)を暗殺したと教えられた。以来、80年余り、河野龍巳の心の中で重い十字架となっていく。
新聞記者だった河野龍巳の祖父がなぜ暗殺に加わったのか。
閔妃は国を守ろうとロシアに近づいていたが、日本はそんな閔妃を排除しようとした。事件は駐朝鮮日本公使の三浦梧楼が指揮したとされる。
河野さんの祖父はソウルの新聞記者をしていた。河野龍巳は韓国にあった偽造レリーフ(日本人が日本刀で朝鮮王妃を殺害)を見て、自分も罪を感じたという。
■動画閔妃暗殺事件 日韓114年後の氷解(2)


同じく心を痛めてきた人が居る。家入恵子(80歳)。家入恵子の大叔父である家入嘉吉も事件に関わったとされる。家入嘉吉は当時18歳で朝鮮で日本語の教師をしていた。

重い十字架を背負ってきた2人は、2005年5月に韓国に訪れた。閔妃(明成皇后)殺害者の孫たちが韓国を訪れたことは韓国で大々的に報道された。2人は閔妃の孫(李春吉)に会い、頭を下げた。墓を訪れ、墓を管理する側から地面に膝をついて3回お辞儀をしてほしいと求められた。
河野龍巳「祖父に代わっておわびします。」
家入恵子「これから日本も韓国と仲良くしていきましょう」

古舘伊知郎
「国が強い国になろうとして他国に入っていく。そして戦争すると必ずこういう悲劇が起きてくる。やはり韓国の人たちの深い恨みというのは急に氷解しないと思うんですね。だからこそ日本も認めてこうして民間レベルで動いて、まず手を取り合うということは良いことですね。」


閔妃暗殺事件の首謀者も実行犯も日本人ではなく朝鮮人だった証拠は山ほど揃っており、テロ朝の「報ステ」の歴史偽造と虚偽報道は確実だ。


石塚英蔵書簡

「野次馬」という表現は、日本兵には使用せず、朝鮮人に使用する表現









李周會、尹錫禹、朴銑の裁判官報






禹ハ旧年王妃ヲ弑セシハ自己ナリトノ意ヲ漏セリ

在本邦韓国亡命者禹範善同国人高永根魯允明等ニ於テ殺害一件





にもかかわらず、8月31日に系列の朝日放送(06-6453-1111)がもっと詳しく放送するらしい。

テレメンタリー
http://www.tv-asahi.co.jp/telementary/index_top.html
114年目の氷解~反日感情の“原点”、閔妃暗殺を見つめた5年~2009年8月31日放送~

1895年暗殺された閔妃(朝鮮王朝の王妃 肖像画) 1895年、朝鮮王朝の王宮に日本人らの一団が侵入、王妃だった閔妃を殺害した。この事件は、韓国人が抱く反日感情の原点ともいわれる。
熊本市で開業医をする河野龍巳さん(87)は、殺害に関わったとされる人物の孫である。子供の時から“重い十字架”を背負ってきた。河野さんは2005年思い切って閔妃の墓(洪陵)へ墓参に行く。その後も歴史研究家らと訪韓した。
彼らの気持ちを理解した朝鮮王族子孫の一行が、2009年4月、熊本を訪れる。

制作:朝日放送






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