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ノモンハン事件5・壊滅的打撃を受けたのは関東軍ではなくソ連軍だった!『ノモンハン事件の真相と戦果―ソ連軍撃破の記録―』小田洋太郎・田端元共著(有朋書院、2002年)・第2次大戦見直しに反発=ロ大統領



写真上
飛行場に着陸する飛行第64戦隊所属の九七式戦闘機"甲"。ノモンハンは見渡す限りの草原地帯のため、前線では特に飛行場というものは造成せず、せいぜい背の高い草を刈り込んだ程度の「簡易飛行場」を転々と移動しつつ作戦することが多かったという。

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ノモンハン事件4
壊滅的打撃を受けたのは関東軍ではなくソ連軍だった
『ノモンハン事件の真相と戦果―ソ連軍撃破の記録―』小田洋太郎・田端元共著(有朋書院、2002年)
第2次大戦見直しに反発=ロ大統領
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のつづき




http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090826-00000106-jij-int


第2次大戦見直しに反発=ノモンハン事件70周年-ロ大統領

>メドベージェフ大統領は演説で、「戦いで日本の関東軍は壊滅的打撃を受けた」とし、同事件でのソ連側の勝利が第2次大戦全体の行方にも影響を与えたと指摘。




ノモンハン事件は、関東軍も苦戦したが、ソ連軍の被害は関東軍を遥かに上回っていた。
壊滅的打撃を受けたのは関東軍ではなくソ連軍だった!
スターリンは大損害に耐えかね、停戦に焦っていた。


―――――
『ノモンハン事件の真相と戦果 ―ソ連軍撃破の記録―』小田洋太郎・田端元共著(有朋書院、2002年)


 満州国実業部大臣丁鑑修氏は幼少のロシア少年を保育し後にソ連に帰国させた。彼はソ連陸軍の参謀になり、丁氏に「ノモンハンでソ連軍は日本軍の2倍の戦死者を出し、戦車は全滅した。飛行機の損耗も日本軍の比ではない。ソ連が土壇場になった時、日本軍が攻撃を中止し、私共も命拾いした」と連絡した(鬼塚知應『惨たり燦たりノモンハンの夕映え』)。

 「日本軍の傍受電によると、ソ連の損害は甚大でバイカル湖以東の病院は負傷者の収容に忙殺され、西行き列車には患者が満載されているのがわかった。患者は3万3千~4万名と考えられる」(『ノモンハンの真相』玉田美郎。当時、戦車第4連隊長)。辻政信氏も傍受電で、「ソ連軍は、損害の甚大なことを中央部に訴えており」と記述している。

 これに戦死者の数を入れると、ソ連軍の損害は5万名以上になる。

 この損害に耐えかねて、

 8月15日にソ連はドイツ大使に仲介を打診し、かつて独が提案し、ソ連が避けていた独ソ不可侵条約を提案した。

 16日、リッペントロップは日本に影響力を使うことを約束した。

 18日、モロトフは催促し、リッペントロップは「総てはヒットラーが保証する」と述べ、文句があるなら日本の攻撃は止められない、と脅かした。

 20日、ソ連側は停戦交渉に持ち込むために大攻勢を開始したが、戦況は進展せず(後述の井置部隊などから大損害を蒙り、予備兵力はなくなっている)、一方、日本の大使は無表情で、何ら交渉を申し出なかった。

 22日、利権問題で会見の時にソ連側は焦って、「日ソ国交正常化はソ連の最も希望する所、国境問題につき具体的提案があれば検討する」と停戦を申し込み、

 23日、独ソ不可侵条約締結。日本を驚かせたが、スターリンはリッペントロップに対日関係を好転させたいからドイツの援助を頼むと言い、如何にスターリンがノモンハン処理に焦っていたか分かる。

 24日、日本軍の反撃開始予定日だったが、ボロジエイキン少将によると、「日本軍は10ヶ師団を集結中で補給線は日本有利だった。これはヒットラーの急速な進撃と無関係ではない」と推測した。1ヶ師団の日本軍でもてこずっているのに10ヶ師団も来られては大変と、スターリンは震え上がった。そして、

 9月早々、ソ連はドイツ大使に停戦工作を開始したのである。

 関東軍は当然、反撃の軍を用意したが、中央は軍部にはソ連からの停戦申し込みである事を隠して交渉した。事情を知っていれば、関東軍は停戦に応じなかったといわれる。とにかく反対する関東軍を大命として強引に停戦させ、復讐を期した将兵は残念がった。



 (参考)日本の基本戦略として、日ソの兵力比は満州では3対1で、到底日本側が不利なため、「ソ連当初の攻撃を食い止め、その間に約1ヶ月をかけて内地、朝鮮、シナから約10ヶ師団を集めて、敵主力と決戦する」、この情報が漏れていたのであろう。早速日本の反撃を10ヶ師団と見積もったのである。原案では第二次動員をし、総計23ヶ師団、飛行機も500機以上を集め、ソ連30ヶ師団に対抗するもので、ノモンハンで日本は1ヶ師団しか動員していないから、第一次動員以前の問題だった。

 ソ連側損害の数字は、今まで数回にわたり発表されたが、その度に数字が増えてきており、文書管理の秘密保持の解禁から、今後も増える可能性があるとソ連側自ら述べている(実の所は統計の所在が不明らしく、筆者らが検討するほどに統計などないのではないかと思われる)。

 (参考)スターリンは国内での地位安定を目指して昭和12年にトハチェフスキー元帥を含む

 元帥       5人中、3人
 軍司令官   16人中、14人
 海軍提督    8人全員
 軍団長     67人中、60人
 師団長    199人中、136人
 旅団長     397人中、221人
 将校      3500人

が銃殺され、昭和13年6月にはリシュコフ大将は日本へ亡命し、日本はソ連の進攻はないと思っていた。ジューコフ将軍も粛清のリストに入っていた。

 (参考2-ソ連数字の魔術)ソ連側の算定の基本は、常に日本側の兵力を過大に算定し、戦果はそれに見合う数字を発表し、それよりも少ないソ連側損害を発表していたのである(牛島氏)。従って、ソ連側の算定する日本軍の総兵力7万5千(これは実戦の参加部隊ではなく、第二次ノモンハン事件以後に派遣を計画した総数を含む数字)以下の兵力で勝ったとするための数字を、参戦数としているので、本当の数字は異なり、ソ連軍の実際は23万名以上ともいうが、一応、第二次ノモンハン事件ではジューコフのいう5万7千名としておく(当時点の日本側参戦者は2万以下)。

 (参考-3)ノモンハン事件を「ハルハ河戦争」とソ連側は記しているが、宣戦布告がないので「戦争」というのは間違いである。



優秀な日本機

 NHKは日本機が多いので優勢だったと報道したが、間違いである。

 日本機の集結は5月13日の臨時飛行団に始まる。

 飛行第10戦隊 97式軽爆撃機 18機 偵察1機
 飛行第24戦隊 97式戦闘機   19機 松村黄次郎中佐

 5月24日には、

 第12飛行団司令部
 飛行第11戦隊 97式戦闘機   19機 野口雄次郎大佐が加わった。

 付記、神武天皇即位以来の年号を皇紀といい、皇紀2597年(昭和12年、1937年)に制式となったので97式という。

 日本軍の戦闘機は優秀で緒戦の5月20~23日までにソ連機5機を撃墜し、その後の6日間(5月26~31日)でもソ連機175機を撃墜してソ連空軍を撃滅した。これに恐慌を来たしたソ連側は飛行士に戦闘禁止を命令した。日本の飛行機を見たら逃げるように指導し、専ら、日本機のいない時に地上攻撃に来たが、日本機に遭遇すると、その後も数十機単位で撃墜されている。

 「ソ連機が1段50機の3段構え、合計150機で来ても日本機が数機ではダメだが、20機も行けば逃げた」(中尉、河添〔阿部〕武彦氏)。

 事実、5月28日は60機対18機で戦い42機を撃墜している。その他80機対9機で戦い篠原機だけで6機を撃墜とか、6月27日は篠原機だけで11機を落としている。

 当初、日本側は5月13日、飛行第24戦隊19機しか配備せず、9機ずつ4交替で飛び、場合により別の9機が応援に賭け付けたもので、ソ連側は一度に日本機を30機とか、45機を撃墜したなど空戦記で発表しているが嘘である(ジューコフは6月22日から26日までに日本は64機を失ったと書いたが、日本側の記録では日本機の損失は7機である)。

 ソ連戦闘機のイ15は羽布張りの複葉機で速度が遅く、イ16号は金属製といわれるが羽布張りもあった。運動性能は鈍重で、いずれも日本戦闘機の軽快な運動と熟練した技術に抵抗できなかったので、欧州からスペイン内戦に参加した飛行士と、イ15を改造した1153(チャイカー鴎)を大量投じた。これは、8ミリ銅板をイ15の座席の背当板とタンク囲いに使い、引込脚にし、大エンジンをつけたもので外観は同じ羽布張りの複葉機だった。

 ジューコフのいうイ16の改良型も座席とタンクを8ミリ鋼板で囲ったものだった。新鋭高速のイ16などと書く者もいるが、実態は違う。旋回性能は悪く、速度も上らなかった。

 日本の戦闘機は全金属製の97式戦闘機で高速ながら旋回性能に優れ、旋回半径は約78~86米、これは英国やドイツ機の110~140米より優秀であり、「1旋廻半でソ連機の真後ろに追尾することができた」(少年航空兵第4期生、児玉敏光、当時19歳)。
―――――


つづく






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ノモンハン事件3
壊滅的打撃を受けたのは関東軍ではなくソ連軍だ
『ノモンハン事件の真相と戦果―ソ連軍撃破の記録―』小田洋太郎・田端元共著(有朋書院、2002年)
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第2次大戦見直しに反発=ノモンハン事件70周年-ロ大統領

>メドベージェフ大統領は演説で、「戦いで日本の関東軍は壊滅的打撃を受けた」とし、同事件でのソ連側の勝利が第2次大戦全体の行方にも影響を与えたと指摘。




ノモンハン事件は、関東軍も苦戦したが、ソ連軍の被害は関東軍を遥かに上回っていた。
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『ノモンハン事件の真相と戦果 ―ソ連軍撃破の記録―』小田洋太郎・田端元共著(有朋書院、2002年)


第二次ノモンハン事件

 6月17日にジューコフは越境禁止命令を解除し満州国諸点、甘珠爾(カンジュル、ハルハ河から40粁の地点)、ハロンアルシャン、アムグロ、ハルハ廟の爆撃をし、地上軍はジャミンホドク、チャガンソウル・オボ、ツアガン・オボで満州国軍を攻撃して、日本を挑発した。第二次ノモンハン事件の開始である。教科書の9月開戦は間違いで、9月には終っている。

 6月27日になってようやく関東軍は敵領土内のタムスク飛行場を爆撃し、大戦果をあげた。主権国家の軍と関係ない武装勢力が基地としている場合は、その主権国家に取り締まりを要求できるが、取締るべき主権国家軍(この場合、ソ蒙側)が目的意識をもって越境侵入し、爆撃をしている事実は、その主権国家が越境侵略の責任を負わねばならないから、日本が基地を攻撃するのは当然の権利であり、非難する方がおかしい。日本側が敵領土内の基地攻撃を控えたのは外交的・戦略的判断からに過ぎない。

 以上を見れば、ソ連側は昭和9年以来、外蒙古にソ連軍を大量に入れる事を目指し、侵略的態度で機会を窺っていたのが分かる。

 ソ連は日本がシナに総兵力の70%以上を出兵しているため、ノモンハン事件前年の張鼓峰事件では激しい軍事行動を起こして日本の出方をみた。(その以前から双方の飛行機は事故で相手の地上に不時着していたが、日本側は常に乗員と機体を返還しているにも拘わらず、ソ連側は機体も乗員も返還していない。ソ連を恐れていると見られても仕方ない)そして、日本の不拡大方針を日本に軍事的余裕がないと見て、世界赤化の一環たるポーランド侵略を前に外蒙方面を安全にする為に国境交渉委員の協調派も処刑して、内務省下の国境警備隊に事件を起こさせたのである。

 前年の張鼓峰事件で日本が飛行機を出して攻撃し、譲歩しなければ、ノモンハン事件は起きなかったかも知れない(昭和19年の夏以降もソ連軍は飛行機、船、トラック、兵員で意識的に国境を数キロ侵犯し、放火、拉致、発砲など81件を行い、日本側の反発力を見ている。これは、しばしば交戦となり人馬に損害が出ている。また、満州国側でも13件の発砲やら接近をおこない示威行動をしたと抗議をされているが、この反発力を示すのも国境維持の必要行為であろう)。

 一方、日本の想定する主戦場は満州で、ここに正規師団を配備し、蒙古地方には防御と持久戦を目的として新設師団(簡単にいえば速成で、訓練と装備が不十分で人員も60%だった)を配備し、装備も良いものは満州と本土に温存しており、積極的な進撃は想定していなかった。外蒙古軍を対象にして考え、ソ連軍が相手とは考えていなかった為である。

 「東洋およびアジア全体を席巻しようという野望をもった日本軍部がハルハ河畔一帯にわたってしかけた大きな挑発であった・・・・・尠なくともソ・モ側の兵力が敵するものでなければ、モンゴル政府のいうように、今日、モンゴルの独立はなく、第二の満州になり下がっていたのである」(田中克彦『モンゴル・民族と自由』)という見解は、まず日本に外蒙占領の意図のないこと、及び「侵さず侵さしめず」という、国境保全の基本方針を無視したもので、論外である。また、後述するが、満州国の本質を誤解している。これは、ソ連の外蒙侵略を正当化する為のものであり、ソ連の外蒙粛清支配の批判がなく、当時の蒙古人の反ソ感や日本人への親近感(それ故に蒙古人を粛清した)、そして、日本の不拡大方針を知った上でのソ連の国境侵犯を無視している。

 外蒙政府はソ連に征服された傀儡政府になった事とソ連の挑発を書くべきである。



 (参考)ソ連・外蒙側のいう日本の野望とは、昭和13年頃の8号作戦計画、対ソ作戦計画の試案で、甲案は従来通りの満州東部・北部からの攻撃案に対して、乙案として初めて蒙古に目が向けられたものだが、補給線に難点があり、研究段階で廃案になったもので、この8号乙案を日本の世界侵略案の証拠の如くいうこと自体、思考に信頼性のない事を示すものである。

 東京裁判でウエッブ裁判長は「参謀本部を有する国は何れもかかる計画を持つ」と言い、有事時の作戦計画に過ぎず、侵略とは関係ないと見解を示した(アメリカは日露戦争後すでに、対日作戦計画を作っており、東京裁判でも指摘された)。

 明治44年(1911)、中華民国の革命騒動にまぎれてロシアの後押しで外蒙は大蒙古国として独立したが、日露戦争後ロシアは満州侵入の報復計画を作り、

 1、外蒙古からの東進攻路
 2、ブラゴエスチェンスクからの南進攻路
 3、シベリアからの西進攻路

の3ルートからの同時攻撃を予定して、外蒙古の庫倫(今のウランバートル)に歩兵1ヶ旅団、砲兵1ヶ連隊、騎兵1ヶ連隊が駐屯していたから、蒙古経由の進撃案はロシアの方が早いし、実行している。そして昭和14年2月、ウランデーとウランバートル間の鉄道が開通しているのが発見され、新聞は「ソ蒙新ルート、外蒙制覇の鉄道完成」と報じている。

 また、「支那を征せんと欲せば、まず満蒙を」なる田中上奏文なるものが日本の世界征服案の証拠の如く言われたが、これは当初から多くの矛盾点により後時代の偽書と断定されたもので、戦後、張学良の秘書、王家?が自ら作成した経過を回顧録で発表してケリがついた(秦郁彦著『昭和史の謎を追う』)。

 (参考)コミンテルンとは「共産主義国際機構」で1919年レーニンが創立し、世界の共産主義革命運動を指導し、各国の共産党を絶対服従させた。つまり、世界侵略案の本家はソ連で、ゆえに防共協定(1936年)ができたのであり、ソ連が侵略されるなどは、自国の非を隠蔽するもので、原因はソ連の世界赤化の侵略案にある。

 第二次ノモンハン事件の開戦地点は、ソ連側の唱える国境線からでも20キロ入った満州国の将軍廟であり、ソ連軍の侵入であったのを注意せねばならない。日本軍はソ連軍を追い払い、そのまま終らせる積もり増強もせずにいた所、大損害を受けたソ連軍は、(外蒙確保のため、停戦に持ち込むために)いかなる犠牲も払えとのスターリンの命令で8月20日に日本軍に大攻勢をかけたのである。

 日本側の増援軍が終結した頃に停戦になった。ソ連はソ連の唱える国境線を確保できず、東南部ではむしろ日本軍が進出していたが、その回復をせず、ソ蒙相互援助条約を遂行せずに停戦に応じて、9月15日、日ソ協定を結ぶと、2日後にはポーランド侵略を開始した。

 ノモンハン事件でソ連側は、ソ連軍の損害9284名、日本軍に損害は5万2千~5万5千名と発表したため、日本軍の大敗と信じられたが(当時の日本軍の参戦者は延3万以下で5万もの損害が出るはずがない)、これはスターリンの粛清を恐れたソ連の将軍達が誇大の勝利と過小の損害を必要とし、常に実数の2~3倍の損害を与え、ソ連の損害は僅少と報告したからである。

 しかし、実情は全く違う。ソビエト体制の崩壊による公文書公開でソ連側の大損害が判明した。


損害状況   戦死    負傷      合計
日本軍   8,741名  8,664名 17,405名
ソ連側   9,703名 15,952名 25,655名
 (ソ連側損害は最新の数字、『ロシアの記憶』モスクワ軍事出版社、1998年による)

―――――


つづく






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パチンカスが車内で子供を蒸し焼きにして殺した!・男児死亡 親がパチンコ中に車内で…熱中症か 秋田・朝鮮玉入れ師は中毒性の高い病人で人殺し予備軍・パチンコ政治家を落選させよう!
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車内で男児死亡 親はパチンコ



男児死亡 親がパチンコ中に車内で…熱中症か 秋田
8月27日21時35分配信 毎日新聞

 27日午後1時半ごろ、秋田県由利本荘市上大野のパチンコ店駐車場で、同県にかほ市の主婦(31)が自分の車の中で長男(生後11カ月)がぐったりしているのに気づき119番した。長男は搬送先の病院で死亡。熱中症とみられ、県警由利本荘署は保護責任者遺棄致死の疑いもあるとみて母親から事情を聴いている。

 同署などによると母親は、寝ていた長男を後部座席のチャイルドシートに座らせて、車の窓を閉めたままパチンコを始めた。午後1時半ごろ車に戻り、異変に気付いたという。エアコンをかけずに2、3時間放置したとみられる。駐車場に屋根はなかった。


2006年6月12日付の信濃毎日新聞によると、保護者がパチンコやパチスロ中に駐車場の車内に放置されたり、敷地外に出て交通事故に遭うなどして死亡した子どもが1998年から2006年6月11日までに全国で計27人に上った。放置されていた子どもが見つかった例も、2005年1年間で25件、39人に上った。

パチンカスは人殺し予備軍だ。

車内の熱中症についてJAFが行ったテストによると、外気温23℃でも、自動車内のピーク温度は一部では70℃を超える。

専門家によると50℃近い気温は、赤ちゃんにとって非常に危険で、たった10分程度の短時間で重症疾患になる恐れもある。


パチンカスは病気だ。パチンコは他のギャンブルと比べても中毒性が強いと思われる。他のギャンブルで、子供を車の中で蒸し焼きにしてしまう事件を聞いたことがない。




パチンコやスロットの場合、他のギャンブルと比べても、視覚や聴覚などへの刺激が大変強く、大当たりのときに分泌される脳内麻薬物質「β-エンドルフィン」や「ドーパミン」の量が多い。
β-エンドルフィンは脳内麻薬ともいわれ、モルヒネに比べて6.5倍の鎮痛作用がある。ドーパミンは中枢神経系に存在する神経伝達物質で、アドレナリンなどとともに快の感情、意欲、学習などに関わる。
これらβ-エンドルフィン、ドーパミン分泌は一種の薬物依存に近い状態で依存する恐れがある。こうなると自分の意志では止められない状態になる。病的な精神状態になり社会的・身体的精神的に著しい障害を引き起こす。
パチンコは、アメリカ精神医学会の診断基準では「病的賭博」とされる。病的賭博は、「進行性」「否認の病」「死にいたる病気」とされる。

パチンコ屋(朝鮮玉入れ屋)の8割以上は、戦後のどさくさにまぎれて、駅前の一等地を略奪、不法占拠した朝鮮人が経営している。日本では30兆円という異常な規模のギャンブル産業だが、韓国では2006年6月に法律で禁止された。韓国ではパチンコ禁止効果で金が他の消費に回り、個人消費が伸びた。

そもそもパチンコの換金行為は違法行為なのだから、法令に従って取り締まり、パチンコそのものをなくしていく方向に持って行くべきだ。パチンコの違法行為の野放しは、政治家の不作為の中でも最も許されざるものの1つだ。

パチンコチェーンストア協会政治分野アドバイザー

自民党 計27名

鳩山邦夫 衆議院 福岡6区、久間章生 衆議院 長崎2区、伊藤公介 衆議院 東京23区、長勢甚遠 衆議院 富山1区、山本有二 衆議院 高知3区、原田義昭 衆議院 福岡5区、野田聖子 衆議院 岐阜1区、大村秀章 愛知13区、岩屋毅 衆議院 大分3区、櫻田義孝 衆議院 千葉8区、田中和徳 衆議院 神奈川10区、葉梨康弘 衆議院 茨城3区、山口泰明 衆議院 埼玉10区、下村博文 衆議院 東京11区、木村太郎 衆議院 青森4区、小島敏男 衆議院 埼玉12区、松島みどり 衆議院 東京14区、中野正志 衆議院 比例東北、桜井郁三 衆議院 神奈川12区、後藤田正純 衆議院 徳島3区、西村明宏 衆議院 宮城3区、萩生田光一 衆議院 東京24区、菅原一秀 衆議院 東京9区、戸井田徹 衆議院 兵庫11区、馬渡龍治 衆議院 比例東海、魚住汎英 参議院 比例全国、秋元司 参議院 比例全国


公明党 計6名

高木陽介 衆議院 比例東京、福島豊 衆議院 大阪6区、上田勇 公明党 神奈川6区、漆原良夫 衆議院 比例北陸信越 、富田茂之 衆議院 比例南関東、丸谷佳織 衆議院 比例北海道


民主党 計23名

羽田孜 衆議院 長野3区、石井一 参議院 比例区、川端達夫 衆議院 比例近畿、古賀一成 衆議院 比例九州、池田元久 衆議院 比例南関東、金田誠一 衆議院 北海道8区、小沢鋭仁 衆議院 山梨1区、岩國哲人 衆議院 比例南関東 、古川元久 衆議院 愛知2区、山田正彦 衆議院 比例九州 、中川正春 衆議院 三重2区、牧義夫 衆議院 愛知4区、松野頼久 衆議院 熊本1区、鈴木克昌 衆議院 愛知14区、北神圭朗 衆議院 比例近畿、小川勝也 参議院 北海道13区、岩本司 参議院 福岡、渡辺秀央 参議院 比例10区、前田武志 参議院 比例区、増子輝彦 参議院 福島、室井邦彦 参議院 比例区、柳澤光美 参議院 比例区、水戸将史 参議院 神奈川区



パチンコの問題点【まとめ】

1.毎年、多くの子供たちがパチンカスによって車中で蒸し焼きにされている。

2.パチンコ依存症は医学的にも認められている病気である。

3.パチンコ屋やパチンカスが行っている行為は違法であり、パチンコ屋やパチンカスは犯罪者である。警察関係者が業界団体や業界企業に天下りしているから野放しにされているだけであり風営法23条に明確に抵触している。

4.在日朝鮮人がパチンコ屋で稼いだ資金が北朝鮮を支えている。

5.パチ屋の入り口からパチンカスを見ると、まるで養鶏所の鶏のようだ。朝鮮人の家畜そのものである。

6.マスコミは、パチンコ産業から巨額の広告宣伝費を受け取っているため、事実を滅多に報道しない。






「パチンカスは病人だ!パチンコ産業を撲滅しよう!」
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ノモンハン事件3・壊滅的打撃を受けたのは関東軍ではなくソ連軍だ・『ノモンハン事件の真相と戦果―ソ連軍撃破の記録―』小田洋太郎・田端元共著(有朋書院、2002年)・第2次大戦見直しに反発=ロ大統領



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ノモンハン事件2
壊滅的打撃を受けたのは関東軍ではなくソ連軍だった!
『ノモンハン戦場日記』ノモンハン会=編(新人物往来社、1994年)
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第2次大戦見直しに反発 ロ大統領

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第2次大戦見直しに反発=ノモンハン事件70周年-ロ大統領

 【モスクワ時事】ロシアのメドベージェフ大統領は26日、モンゴルの首都ウランバートルで1939年の満州・モンゴル国境紛争、ノモンハン事件(ロシア側呼称「ハルハ河事件」)70周年記念行事に出席、第2次大戦の歴史の見直しを容認しない姿勢を強調した。
 インタファクス通信によると、メドベージェフ大統領は演説で、「戦いで日本の関東軍は壊滅的打撃を受けた」とし、同事件でのソ連側の勝利が第2次大戦全体の行方にも影響を与えたと指摘。その上で、「この勝利の意味を変更するような捏造(ねつぞう)は容認しない」と強調した。 
 メドベージェフ大統領はエルベグドルジ・モンゴル大統領とともに、事件当時の現地司令官だったジューコフ・ソ連軍元帥の記念碑に献花。戦闘に参加したソ連、モンゴル両軍の元兵士らに勲章を贈った。
 ロシアの国家元首がノモンハン事件記念行事に参加するのは初めて。ロシア政府筋は「欧州で第2次大戦の歴史を見直す動きが出ているため、メドベージェフ大統領はノモンハン事件記念式典に参加し、ソ連の正当性を主張することを決めた」と述べた。
 今年は独ソ不可侵条約締結70周年にも当たり、欧州では同条約がナチス・ドイツのポーランド攻撃を可能にしたとして、第2次大戦開戦へのソ連の責任を問う声が高まっている。欧州議会は条約が調印された8月23日を「ナチズムとスターリニズムの犠牲者追悼記念日」に指定することを提案、ロシアが猛反発していた。(2009/08/26-21:20)
――――


>メドベージェフ大統領は演説で、「戦いで日本の関東軍は壊滅的打撃を受けた」とし、同事件でのソ連側の勝利が第2次大戦全体の行方にも影響を与えたと指摘。




ノモンハン事件は、関東軍も苦戦したが、ソ連軍の被害は関東軍を遥かに上回っていた。
壊滅的打撃を受けたのは関東軍ではなくソ連軍だった!
スターリンは大損害に耐えかね、停戦に焦っていた。


―――――
『ノモンハン事件の真相と戦果 ―ソ連軍撃破の記録―』小田洋太郎・田端元共著(有朋書院、2002年)

第1部 総論篇

 ノモンハン戦がなぜ起きたか、なぜこの荒野で戦う必要があったか、それはソ連が国境侵犯したからである。
 多くの筆者は、これに応戦した日本の対応を批難するが、一方、ソ連の満州領土への爆撃やら、ソ連の唱える国境線からでも20キロ以上入った将軍廟への侵入を含むソ連側の国境侵犯を正しい、とは述べていない。
 日満議定書で約束した満州防衛の責任を果たすべく、日本側が応戦したのは正しい対応だったのである。

 日本の対ソ戦回避方針はゾルゲ・尾崎秀実らのスパイ行為でソ連には知られていたが、ソ連は平和策に非協力で、これを利用して進入したソ連の行為を批判せねばならない。


1937年
 ノモンハン事件の前に大粛清が起きた。外蒙人は日中戦争が始まったので、これを機会に、日本軍が内蒙古に進駐したら、これを外蒙古に招き入れる事を計画し、蜂起すれば、満州の蒙古人や日本が援助すると考え、蜂起の指令書を出したがソ連派の手に入り、ソ連軍が介入して、ゲンデン前首相を始め、その他、マルヂー参謀総長、外相、商務相、保険相、司法相、教育相、郵政相、経済相、軍団長2名、師団長6名、士官学校長、その他の将軍や将校、ラマ僧侶2千人などが処刑され、その他2万6千人が死刑になった。当時の外蒙古の人口が80万人であるから30人に一人で大変なもので、過去から通産すると人口の約6%、17人に一人が消された。これがソ連統治の実際で後にもバルト三国で見られた悲劇である。
 8月、国防相デミドは喚問されて、モスクワへの列車中で撲殺された(婦人の目撃談)。当時、デミドは日満攻撃派であり、ソ連はこれを押さえていると、もっともらしくソ連は言ったものである。殺害された第2軍団長ダンバー将軍の遺志で真相を伝えるべくビンバー大尉は満州へ脱出し、手記を発表した。家畜の増加を上回る駐留ソ連軍の徴発や外蒙兵士の対ソ破壊行為、外蒙人将校にはソ連共産党員の学問ある女性と結婚させ、夫を操る事も分かった。また、ソビエト国内でも大粛清があった。


1939年
1月以来、国境紛争が続発した。これはチョイバルサンが国境紛争の責任をアモル首相に問う為に起こしたものとも言われる(ァモルは3月に逮捕、後に銃殺)。今日のモンゴルでは、故チョイバルサン(後に元帥、首相)の批判がされている。
 これらの経緯から、ノモンハン事件はチョイバルサンの政権欲で起きたと見られていたが、今日、スターリンの指示で行なわれた事が判明している。
 牛島康允氏のノモンハン事件発生前における外蒙の政情説明は貴重であり、「スターリンにとっては国境線を数キロ前進させるというケチな問題ではなく、外蒙全体を失うか否か否かの問題だった」(「蒙古50年の夢」)の見解は的を射ている。
 即ち、放牧の水資源や草原を争う問題ではなく、ソ連は、外蒙に兵を入れて反乱を防ぎ制圧を果す必要と、外蒙を足場に満州国に侵入する足場として、国境紛争を起こしたのである(ロシアの外蒙経由の明治44年来の構想である)。(参考)当時、外蒙は国境から30キロを無住地帯にしていたから、畜産上の必要はないし、数キロを何の為に執拗に争うのか日本側はその目的が分からず、中国への支援説、天津事件での英国への支援説、粛清後の威信回復説、国内不満の解消説、その他で困惑していた。
 後述するが、バルト三国での経過を見れば分かるが、ソ連は国境紛争を自ら起こして、その国を制圧するのを常套手段としており、これは、その最初の例である。
 また、クックス氏は「ソ連は自らの唱える国境で進撃を受け止めた。領土拡張の意図はなく、防衛線まで国境を動かしただけ」(「ノモンハン50年目の証言」西日本テレビ)など、ソ連の国境認識が正当なように述べているが、これは、日本軍の終結を知り、今までの大損害から日本軍の本格的戦闘を恐れて進撃をしなかった事情と、ポーランド侵攻を目前に停戦をする必要があった事、それにモンゴルの主体性を無視した考察不測にすぎない。

 NHK・TV(「ノモンハン事件60年目の真実」平成11年8月17日放映。鎌倉英也著「ノモンハン隠された『戦争』」)は、ナチのポーランド侵入に対抗してポーランドに入ったものであり、その以前に東方安定の為に外蒙の粛清とノモンハン事件を起こしたので、正当であるかのような解説をしていた。当時、スターリンはヒットラーを尊敬し、彼の情報で赤軍幹部の粛清を行い、協力してポーランド分割を行なったもので、ソ連のポーランド進攻や外蒙制圧に正義はなく、侵略性を伝えないNHKの姿勢はポーランド人の被害を無視するものでポーランドに対して礼儀を失するもので


第一次ノモンハン事件

 昭和14年(1939)5月4日、外蒙兵がノモンハン地区を襲撃した。第一次ノモンハン事件の始まりである。しかし、航空戦でソ連機は大損害を受けた。ソ連側は5月31日までに180機を失ったが、日本側の損害は0で、ソ連機には戦闘禁止が命令された。

 地上戦でも猛烈な抵抗にあい、ソ連側は自国領地と称する侵入地を確保できず侵入軍をハルハ河左岸に引揚げた。日本軍の損害は290名、ソ連側は当時の公式発表では110名だが(鎌倉氏NHK資料では184名)、牛島氏によると600名以上である。

 また、飛行機も河越を禁止された。これで、ソ連側に越境の認識があったのが分かる。日本側はこれで収まったと思っていたが、本格的介入に踏み切ったソ連はジューコフ中将を新しい司令官に任命した。飛行機を増加し、訓練を行い、第二次の侵犯事件を起したが、実は、6月に外蒙古で反革命蜂起があり、タムスク西南、アルハンガヤ、マイマーク、セラリック付近で1千余名が党、政府機関を襲撃した事件がある。「離反する民心を抑えるため(一層の外蒙制圧をソ連は必要として第二次侵犯を起したか)」(樋口紅陽)。と、日本側で真意を疑っていた。

 (参考)ジューコフ就任に至る事情を記すと、極東特別軍は60万名で、ブリュッヘル元帥が10年余をかけて作ったものである。ブリュッヘル元帥は、ソ連軍が大損害を蒙った張鼓峰事件の報告でモスクワに行き、「軽率なる挑戦と作戦の不手際」を口実に列車内で逮捕、投獄され、彼はルビヤンカの獄中で自殺した(その他、シュルテン極東方面軍参謀長、リチャゴフ空軍司令官等の粛清が伝えられたが、シュルテンは復活)。その直後に、スターリンの指示によりチョイバルサンが起こした第一次ノモンハン事件となり、こ
こでも苦戦となった。ソ連の外蒙駐屯軍は特別狙撃第57兵団で、兵団長はフェクレンコ中将だった。特別とはソ連国防人民委員直属の部隊で、言うなれば陸軍大臣直属軍である。フェクレンコ中将は当然、張鼓峰事件でのブリュッヘル元帥の処分を知っており、また、モンゴルでの治安態勢もあり積極的に対日行動がとれなかった。それを口実に解任されジューコフが新任したのである。到着は5月25日か29日の間らいい(鎌倉英也氏)。これはソ連の侵略の計画性を示すものである。
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つづく







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ノモンハン事件2・壊滅的打撃を受けたのは関東軍ではなくソ連軍だった!『ノモンハン戦場日記』ノモンハン会=編(新人物往来社、1994年)・第2次大戦見直しに反発=ノモンハン事件70周年-ロ大統領



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ノモンハン事件1
壊滅的打撃を受けたのは関東軍ではなくソ連軍だった!
『ノモンハン戦場日記』ノモンハン会=編(新人物往来社、1994年)
第2次大戦見直しに反発=ノモンハン事件70周年-ロ大統領
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のつづき




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ノモンハン事件とは
ノモンハン会事務局長   阿部 武彦


勃発の原因

ノモンハンから15キロほど西南に下がったハルハ河を外蒙軍が渡河し満州国軍警備隊とぶつかった、(中略)・・・。現地の連隊長級以下は、ハルハ河の線が国境だと確信していた。故に第1線将兵は命懸けで国境を守ったのである。モンゴル側の主張する国境が別にあると聞いたのは、「ノモンハン」事件が終わった後のことである。現地に立ってみると(今までに5回、戦場で慰霊祭を実施、私も平成2年以来4回慰霊祭のため現地を踏査)広漠とした大草原と砂丘地帯ではやはりハルハ河の線が一番判りやすい国境線だと、我々は痛感した。

「ノモンハン」事件直前まで、ハルハ河近くに満州国軍の国境警備隊哨所が点在し、偵察のための騎馬旅行も平穏裏に実施できた。外蒙古人民共和国から外交的抗議も聞かれなかった。(満州里会議で議題に上がった由、後聞)この既成事実が、モンゴル軍の攻撃で突如破られたと言うのが、第一線将兵の偽らない所感であった。


戦闘、日ソの違い

概括すれば、「勝ったとは広言しないが、決して負けてはいない、1勝1敗と言えるが、やられた時に停戦となって残念だ」と言うのが実感である。巷間で流布されている「戦車に38小銃では話にならぬ」「日本軍が手も足も出せずに大敗した」等の説は、参戦していないで、日本の悪口を言う事に快感を感じる種類の人の妄言である。稀に8月下旬のみの参戦者の中には「火炎戦車に焼かれ、とても酷い戦いで、大敗した」との感想を持つ人がいても仕方がない。8月20日~31日の間に限って観察すれば、戦力差があまりにも隔絶したため、日本軍の精強を以ってしても、抗すべくもなかった。しかも、勇敢な軍隊程守地を死守するので、殲滅的打撃を受けがちであるのは、古来戦史の物語る所である。大局を見極めて、適時撤退を命ずる名将が、現場に居合わせなかったのが不運であった。又「ノモンハン」事件の観察研究が8月下旬にのみ偏り、7月上旬、9月上旬の戦況が霞んでしまっているので私の実感を信用する人は少なく、少数意見となっているのは誠に残念で、奮戦して戦死された英霊に対して顔向けができない。

若干の戦例を述べる、7月3日外蒙台上において対戦車不規遭遇戦が展開された。小林兵団(歩71・72連隊基幹)は、約15キロ南下する間に、数回対戦車戦闘を交えたが、ソ軍11戦車旅団・7装甲旅団などの戦車・装甲車に対し、少なくとも150台以上の損害(破壊・炎上・擱座)を与えて撃退し、約1ヶ月間行動不能に陥らせた。連隊は12門の九四式速射砲(固有4と増加配属8)を主力に、一部肉迫攻撃を加えて戦果を収めた。発射弾6発で次々に5台を炎上させた本多分隊が、砲側で観戦していた辻参謀から現認證を受けたのもこの日の戦である。この速射砲は精度もよく、発射速度に勝れ当時の水準で世界屈指の対戦車砲であった。只口径が37ミリのため、8月下旬戦場に現れた新型敵戦車(T-34、改BT?)の厚い装甲部位を貫徹できなくなったのも事実である。又、九〇野砲8門の独立野砲一連隊が、二十三師団に配属されていたが、この部隊は機動力に優れ全戦線を迅速に移動して、対戦車戦闘はもちろん長射程力(14,000メートル)を活かして暴れ捲った。従って、この連隊では全員「ノモンハン」事件で負けた、とは思っていない。

7月14日には全戦線で、敵を圧倒しわがほうの主張するハルハ河の線を、確保したが、地形上、目の上に外蒙の台が乗掛るように迫り、(比高5~60メートル)見下される。この不利を除く為、同一高度のノロ・バルシャガル高地の線まで、約4キロ後退するよう命ぜられた。残念だったが、地形には勝てないと思った。

9月上旬、二十三師団は殆どの戦力をうしなってノモンハン付近に集結したが、その東南地区(ハンダガヤ~将軍廟の線とハルハ河の間の地域)においては、七師団と後続新鋭兵団(一師団・二師団の一部等)の奮戦により、外蒙古人民共和国が主張する国境線を、はりかにおし込んだ為に、事件後の国境劃定で、この地区を満州国(現中国)領とすることとなった。換言すれば、国境紛争の結果は、領土上両者痛み分けの結果となっている。

日ソの実力はと聞かれると、戦場に集中した戦力には、格段の差があった。中国大陸に百万の大軍を注ぎ込んでいた日本軍は、僻地の国境紛争に兵力・兵站能力を割く余裕は全く持っていなかった。換言すれば国家レベルの政略・戦略ではソ連の方が優位にたっていた。当時列強諸国は国力に比して、過大な軍備を保有していた。なかでもソ連・ドイツ・日本は、その優なる国であったと言える。

航空機の性能  戦闘機では日本が遥かに勝れていた。爆撃機はトントン、であったが、総機数において10倍、集中能力でもソ連に及ばなかった。制空権の鍵を握る撃墜率では7月中は、15対1位で日本軍が優位に立っていたが、8月に入ると8対1位に低下して行き、航空機、人員とくにパイロットの損耗が累積してしまい8月下旬には制空権を奪取されてしまった。

戦車は比較にならないほど、数量・性能共に劣勢で、機甲部隊並びに軍機械化も完全に日本は立遅れていた。武器においては、重機関銃と重砲の性能はわが方が優れていた。しかし、遺憾ながら、数において十数倍の差は、個々の性能を粉砕してしまうものである。

日本軍の優れていたところは、夜間行動、白兵戦闘(突撃)であった。このため8月以降、夜間は日本軍、昼間はソ連軍といった図式になった。経済力のないその頃の日本軍としては、諸々の制約下に、良くやったものだといえる。



問(8)数多くの教訓を得た由だが、その内容は?

(若干例示をするに止める)
a、
兵力の逐次使用をしてはならない。国境紛争のような局地戦では、戦力を小出しに使用する幣に陥りやすいものである。
b、
地形に適合した、機動力を装備した部隊を使用する。(この戦場では騎兵、機械化部隊等の機動力が絶対必要である。この教訓に基づき、南方作戦では歩兵を、自転車部隊に編成変えして、開戦当初に偉功を奏した)
c、
砲兵の機械化と長射程化(二十三師団は「ノモンハン」事件後、90野砲と、15榴(機械化)に改編された。第2次世界大戦後は、各種ロケット砲が普及した為、長射程砲の装備・重砲の射程延長競争は止った)
d、
「百発百中の砲一門は、百発一中の砲百門に勝る」と言う事は明瞭に誤りである。すなわち精神力にも限界があり、圧倒的な物量は、精神力を圧倒することが多い。ある程度の物量の裏付けのない精神力は、儚いものである。
e、
戦場で損耗補充を実施する場合、個人単位ではだめで、部隊単位が望ましい。貧乏だった日本軍は、部隊毎後方に下げて交替で休養させる余裕は無かった。したがって激戦中の第一線に、個人毎に補充したので到着したその日に戦死するという事態が起こり、戦力にならないことが多いのを知った。そこで「ノモンハン」事件後、「安全な後方で分隊長以下(あるいは小隊長以下)を編成し、上下の団結を固めて、その分(小)隊のまま補充すると、その日から戦力になる」との教訓を得た。(大東亜戦争ではこの教訓を生かし、補充連隊を数個編成して、戦地に派遣、訓練を重ねながら、第一線に続行、単位部隊毎で損耗を補充し、戦力を維持した)
f、
奇想天外な情報、又は我方に具合の悪い情報を見逃してはならない。(8月攻勢に備えるための、敵戦力の集中を見誤ったのは、日本軍の常識で見積もったが故である。「兵站の大動脈を船舶とし、港或は卸下駅より200キロ以上に、2個師団異常を維持するのは困難」と信じられて居た。ソ連は鉄道末地から700キロ以上の戦場に、8個師団[日本軍換算]以上の戦力を、短期間に集中した。その決め手は、自動車輸送を兵站の大動脈にすることが出来るだけの、自動車・燃料・道路等の準備ができたと言う事に尽きる。所詮、馬で動く大陸と、船で運ぶ島国との国民性に基づく、考え方の相違に因るものか)
g、
『集中の原則』は物質的戦力のみでなく、上下の思想、精神力の集中にも適用されるべきである。(「ノモンハン」事件における、わが方最大の欠陥は、大本営と関東軍間、第六軍司令部と第一線各指揮官との間に一部、思想の統一・共通の意識・同志的結合を欠いた点が在ったことである)
h、
戦術思想、戦法において日本軍は、創意工夫に乏しく、マンネリに陥って居た。中国軍や、土匪と戦って戦勝を重ねてきたため、心のおごり、変化に素早く適応出来ない体質になっていたのではないだろうか。


731部隊「関東軍防疫給水部」について
実態について殆ど知らないが、戦場において次のような行動があった。

防疫給水について大活躍し恩恵を受けた。砂質広漠地故、水に乏しく、ハルハ河は敵の火制下で利用困難、唯一の水源であるホルステン河(水流部3~5メートル、水は濁っているが水源が泉故、枯渇することはない)工兵橋に大型濾水機を設置して、全第一線部隊の給水源としての大役を担当した。この濾水機は細菌のみならずリケッチャまでも排除できた。

「ノモンハン事件」の間に一度「ハルハ河で腸チブス菌が検出された。ソ連が上流で投下した疑が在るので、防疫給水部の水以外を飲用しないように」との注意があった。

ハルピン郊外に駐屯して防疫給水と伝染病の研究をしている旨の文書をみたことがある。元来防疫給水を任務とする部隊であるが、細菌戦の攻防にまで研究範囲が拡大していくのは、各国共通の成り行きであろう。細菌戦の恐ろしいのは、フラスコ一本であっても、大きな効果を収めることが可能であり、隠密裏に使用しやすく、一般の伝染病と判別困難なことである。しかしながらノモンハンには住民もおらず、地勢・気候も不適で彼我ともに、細菌を使用していないことを断言できる。

『ノモンハン戦場日記』
ノモンハン会=編(新人物往来社)1994年10月15日
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