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日本車お断り!2千万惨殺!支那重慶に「抗日スタンド」登場・看板に「惨殺された2000万人の同胞のため」・犠牲者数は終戦時132万人→最近3500万以上・支那民衆を大量殺害したのは日本軍ではなく支那軍だ


支那の重慶市に登場した日本車への給油を拒否するガソリンスタンドの写真を掲載したサイト「汽車中国車友会」の画面
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「日本車お断り」 重慶に「抗日スタンド」登場



「日本車お断り」 中国・重慶に「抗日スタンド」登場
5月29日9時52分配信 産経新聞

 【上海=河崎真澄】「当スタンドは日本車には給油しません」-。こんな看板を掲げた奇妙なガソリンスタンドが中国重慶市に現れ、地元カーマニアのサイト「汽車(自動車の意)中国車友会」で話題になっている。この看板には「惨殺された2000万人の同胞のため」と“理由”も添えられている。

 いわば「抗日」を売りにしたものだが、このサイトによると、経営者の劉登雲氏は、「中国人の国民意識は低すぎる。経済発展したとしても歴史を忘れてはならず、感覚麻痺(まひ)した人を覚醒(かくせい)させなければならない」と話したという。劉氏は看板を取り外すよう圧力がかかった場合は、訴訟に持ち込む考えも表明している。

 このスタンド登場を写真入りで伝えたサイトには、「よくやった!」「実際の行動を基礎とせよ(日本車お断りを実行せよ)」といった書き込みが相次ぎ、支持が広がっている。

>「当スタンドは日本車には給油しません」-。・・・この看板には「惨殺された2000万人の同胞のため」と“理由”も添えられている。

経営者の劉登雲は日本軍が支那人を2000万人を惨殺したと信じ込んでいるようだが、事実かどうかを検証しよう。



終戦直後は、支那国民党もGHQも、支那人犠牲者の人数を132万人と発表していたが、抗日勝利40周年の1985年になると2100万人まで増加し、以後暫く博物館や教科書で公式数字となった。その後1998年に江沢民が来日した際の演説で3500万人と発言し、以後、南京大虐殺記念館での公式数字となった。更に抗日勝利60周年の2005年には卞修躍博士が5000万人と発表するなど、現在も死者数の増加は継続中だ。

●支那人犠牲者数増加の歴史まとめ

発表年  犠牲者数  調査・出典

終戦時  132万人 GHQ調査・発表
終戦時  132万人 国民党調査・発表
1948年  438万人 国民党政府報告書
1950年代 1000万人 共産党政権発表
1970年  1800万人 共産党政権発表
1985年  2100万人 共産党政権発表(抗日勝利40周年)以後公式数字に
1995年 死傷者3500万人(抗日戦争記念館)
1997年 死者 3500万人(抗日戦争記念館改修後)死傷者数を死者数に変換
1998年  3500万人 江沢民発表(来日時の演説)以後公式数字に
2005年  5000万人 卞修躍博士発表(抗日勝利60周年)

終戦直後にGHQと国民党が発表した犠牲者数132万人は、基本的には支那軍の戦死者数だった。

一方、支那事変では一般民衆にも多くの犠牲者が出たが、それは日本軍の殺害によるものではなく、支那軍の殺害によるものだった。 例えば1938年6月、支那軍は黄河や揚子江の堤防を決壊させ支那民衆を大量に殺害した。この時の死者数については、終戦後の1945年12月に国民政府が作製した「河南省戦時損失調査報告」がある。それによると、1944年末の段階で、洪水による死者約32万人という数値を提示している。

【資料】黄河などの堤防決壊で32万人死亡・【悪逆、暴虐、その極に達す】より一部抜粋
『悪逆、暴虐、その極に達す 敵、揚子江堤防を決壊』6月26日同盟ニュース
悪逆の限り、黄河決壊の暴挙を敢えてなし、無辜の民幾十万かを絶望の淵にたたき込んだ蒋介石は、なんたる無謀か、皇軍を怖るあまり、又しても進撃を阻まんとして、太湖南方揚子江両岸の馬華堤を破壊し、付近一帯の住民は濁流渦巻く大水害に見舞われんとし、怨嗟憤怒は地に満ちている




1938年に支那軍が黄河の堤防を決壊したことによる犠牲者数は32万人と非常に多かったが、支那軍は1937年の支那事変勃発から1945年8月の終戦まで同じようなことを繰り返して支那民衆を殺しまくった。また、支那軍による徴発、略奪、徴兵等は苛酷を極め、支那軍と支那人民との間で殺し合いが頻繁に起こった。このように、支那民衆を大量に殺害した犯人が日本軍ではなく支那軍だったことは、ルシアン・ビアンコ著『中国革命の起源』や郭沫若自伝『抗日戦回想録』で明確に述べられている。

【資料】苛酷な徴発、略奪、徴兵等【支那軍と支那人民の殺し合い】より一部抜粋
一般住民に対して、徴発と略奪があまりしばしば行われたので、農民は日本軍よりも彼等自身の軍隊をさらに一層憎んだ。穀物を略奪されまいとして抵抗する農民を飢えた中国兵が殺したり、日本軍の進撃を免れるために逃亡兵が村民を殺し、その衣類を自分が着こんで変装するということも起こった。日本軍の進撃を鈍らせて鄭州の町を守るために、政府は1938年に黄河の堰を開いた。すると、黄河は1世紀近く前から打ち捨てられたままになっていた古い河道を再び流れた。「思い切った」決定であったが、このために、河南省東部の数十万の農民が命を失った。彼等は水に溺れ、或は飢えて死んだのである。
『中国革命の起源』ルシアン・ビアンコ著




私はうけ合ってもいい、抗戦八年のあいだにこうしてふみにじられた同胞、いわゆる壮丁から弱丁になり、弱丁から病丁になり、病丁から死丁になって行った同胞の数は、戦死したもの、日本軍に殺されたものにくらべて、最低百倍は超えているに違いない。
『抗日戦回想録』郭沫若自伝




農民の飢餓救った日本軍 邦訳本出版 中国で映画化(06/4/9産経新聞より一部抜粋)
1942年、大飢饉で河南省の農民を救ったのは、日本軍だった。…(略)…劉震雲さん著、劉燕子さん翻訳の「温故一九四二」だ。同小説は日中戦争の最中の1942-43年、河南省を襲った干魃による被災民3千万人、餓死者3百万人という大飢饉の状況を農民、蒋介石ら指導者、米国人記者、日本軍の立場から多面的に描き出した。飢饉の原因は天災だけでなく、中国軍の容赦ない軍糧のとりたてのせいでもあった。その中で、日本軍は餓死寸前の農民に軍糧を放出した。




他にも支那軍は、上海市街地のホテルやデパートを爆撃して民間人を大量殺害! 更に、焦土作戦、世界初の違法毒ガス使用や細菌戦、長沙市焼き払いなどの暴虐・悪逆の限りを尽くして大量の支那人民を惨殺した!

●参考記事支那の「極悪暴虐・大虐殺」と「卑怯な逆宣伝」のまとめ




●結論

支那事変における支那軍戦死者は132万人(GHQ発表、国民党発表)

支那民衆を大量殺害したのは日本軍ではなく支那軍だった。これは多数の証拠資料から紛れもない事実

日本軍が無辜の支那民衆を惨殺した証拠資料はなく事実無根





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