正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現
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民主議員「平頂山事件謝罪しろ」・相原久美子ら「日本政府に公式謝罪求める」・平頂山村の人口1369人なのに3千人余虐殺?・匪賊が撫順炭鉱を襲撃し日本人5人殺害・日本軍は平頂山の匪賊400人を掃討


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2009年5月7日12時9分、朝日新聞平頂山事件 民主議員「日本政府に公式謝罪求める」より一部抜粋

>抗日ゲリラによる襲撃の報復として旧日本軍が住民を銃殺した事件は、犠牲者が800人とも3千人ともいわれる。

出鱈目だ。1932年9月15日深夜から16日早朝にかけて1000~2000人の匪賊(武装盗賊)は、満鉄が経営する撫順炭坑を襲撃し、日本人5名を殺害、炭鉱施設を破壊・掠奪した。その日(16日)のうちに日本軍が平頂山村を捜索したところ平頂山村の住民が炭坑を襲撃した匪賊だったことが判明したため、日本軍は人口1369人(多くは炭鉱労働者)のうち約400人を掃討した。
日本軍が一方的に無辜の住民を殺害したのではないし、人数も800人でもなければか3千人でもない。最初に炭鉱を襲撃したのは平頂山住民を含む匪賊だ。朝日新聞はその事実を全く述べていない。




1932年9月17日付「満洲日報」




国会議員24人の謝罪状手渡す、平頂山虐殺事件の生存者に相原参院議員
2009年5月6日、中国通信社

 (中国通信=東京)瀋陽5日発新華社電によると、日本の相原久美子参院議員は5日朝、88歳の王質梅さんと抱き合いながら涙を流し、申し訳なかったと繰り返していた。一人は加害国の議員、一人は被害国の生存者で、事件は中国東北の石炭の町、撫順市で77年前に起きた。

 相原氏は民主党の参院議員で、遼寧省撫順市には初めて来た。ここは70年余り前、日本の占領地で、3000人余りの中国の一般市民が日本軍によって殺害された「平頂山虐殺事件」(1932年)が起きた。王さんは死体の山からはい出した生存者で、当時11歳だった。虐殺で両親と弟を失った。

 相原氏は次のように語った。母が生きていれば年齢は王さんぐらいのはずだ。母は中国の済南で5年間生活し、多くの中国人から助けられた。母はいつも私に戦争は人を変えるもので、最大の罪悪と言っていた。私たちは歴史を鑑とし、新しい日中友好関係を築かなければならない。

 相原氏は東京から来て、わずか30時間余りの滞在だった。目的は書状を手渡すことだった。書状は衆院議員10人と参院議員14人が署名した、「平頂山虐殺事件」の生存者に対して謝罪するものだった。書状には、個人として、日本国民から選ばれた国会議員として、心から謝罪すると書かれていた。

 相原氏は撫順に来たのも、平頂山事件の真の現場に触れるのも初めてで、最初に感じたのは「ショック」だったと、撫順で最初に見学した平頂山虐殺事件跡記念館で語った。

 1932年9月16日、中国では一家が団らんして中秋を過ごしていた。中国侵略日本軍は老人や女性、子供を含む、手に寸鉄も帯びない市民3000人余りを平頂山のふもとに追い詰め、集団大虐殺を行い、証拠を残さないよう死体を焼き、内外を震撼させた「平頂山虐殺事件」を起こした。1970年代に撫順市は虐殺事件跡から遺骨を掘り出し、記念館を建てて安置し、追悼できるようにした。

 相原氏は事件の生存者一人ひとりに謝罪状を手渡し、王さんの手を取りながら謝り、苦しかったでしょうと語りかけていた。

 現在、「平頂山虐殺事件」の生存者は5人だけで、平均年齢は90歳近い。

 記念館を離れる前に相原氏は中国側の関係者と一緒に二本の松を植えた。相原氏は日中友好が永遠に続き、平頂山の犠牲者の魂が安らかであるよう希望した。


>ここは70年余り前、日本の占領地で、…

じゃなくて、そこは「満州国」だった。


>3000人余りの中国の一般市民が日本軍によって殺害された「平頂山虐殺事件」(1932年)が起きた。

「3000人余りの中国の一般市民」は戦後の作り話で、正しくは「満州国に巣食っていた約400人の匪賊(武装盗賊)」だ。


>私たちは歴史を鑑とし、新しい日中友好関係を築かなければならない。

相原久美子が言っていることは、支那政府が言っていることと完全に同じだ。


>1932年9月16日、中国では一家が団らんして中秋を過ごしていた。中国侵略日本軍は老人や女性、子供を含む、手に寸鉄も帯びない市民3000人余りを平頂山のふもとに追い詰め、集団大虐殺を行い、証拠を残さないよう死体を焼き、内外を震撼させた「平頂山虐殺事件」を起こした。

当時の平頂山村の人口は1369人だったのに、どうして3000人余りの市民を大虐殺できるのか?!つーか、日本軍が掃討したのは、「中国の市民」ではなく、「満州国に巣食っていた匪賊」だ。1932年9月15日深夜から16日早朝にかけて1000~2000人で炭鉱を襲撃し、日本人5人を殺害し、炭鉱施設を破壊・掠奪した極悪集団を、日本軍はその日のうちに掃討した。

平頂山事件

1932年9月、満鉄が経営する撫順炭坑は匪賊襲来の情報を入手し、警備を増強。
守備隊は約80名(200名説あり)しかいなかったため、炭鉱では施設を鉄条網で囲み、従業員の在郷軍人で防備隊を結成し、警察団、青年団、中学生なども非常時には応じる体制をとっていた。

9月15日夕方、郊外に匪賊が集結中との情報を得て、防備隊600名を非常召集、警官約200名を加え、それぞれ配置についた。
15日深夜、1000~2000人と思われる匪賊が撫順炭坑を襲撃し、早朝まで日本の防備隊と戦闘が繰り広げられた。
匪賊は撫順内部の通匪(スパイ)から警備状況を通報されており、防備隊の裏をかいて手薄な個所を狙って来た。
日本側に死者5名を含む11名の死傷者が出た。
(社員の渡辺寛一楊柏堡所長以下、殉職4名・重傷2名。家族の死亡1名・重傷2名、守備隊の負傷2名)
また、施設は、破壊・焼却・掠奪され、その後、炭鉱業務は暫く停止を余儀なくされた。

井上清一中尉は襲撃の足がかりとなった平頂山が最も通匪の嫌疑が濃厚とにらみ、約40名を率いて調査したところ、襲撃現場からの盗品が続々と見つかり、平頂山の住民が匪賊と行動を共にしていたことが明確になった。
平頂山村民の多くが撫順炭坑を襲撃した匪賊の一味だったのだ。
その時「井上中尉の率いる一小隊は、匪賊からの発砲を受け、交戦となった」と武藤関東軍司令官から内田外務大臣に宛てた電報も残っている。

10月2日付満州日報、「匪賊の再襲来や焼討ち事件のため、撫順付近の支那住民の3分の1が撫順を離れ、郷里の山東方面へ避難」

10月15日付満州日報、「匪賊の被害者に撫順県公署が救済開始」との記事を掲載し、平頂山村の人口が1369人で、うち死者は400人とある。

〈 ・・九月十五日夜約二千の兵匪及不良民は撫順市外を攻撃し、且各所に放火せるのみならず、我独立守備隊を襲えり。之等兵匪及不良民の徒は、千金堡及栗家溝を根拠とせるを以て、井上中尉の率ゆる一小隊は、十六日午後一時、千金堡に至り部落の捜索に着手せる処、却て匪賊の発砲を受け我軍は自衛上迫撃砲を以て之に応戦せり。交戦約三十分後村落の掃蕩を終えたるが、村落は交戦中発火し大半焼失し、又匪賊及不良民約三百五十人仆れたり。・・ 〉(1932年11月28日外務省着電、原文カナ)


日本軍の過剰防衛と考える人もいるかもしれないが、多勢に無勢の防衛戦だったことは間違いない。



支那の通信社の報道で挙がっている民主党議員の名前

参議院議員
相原久美子 比例代表
犬塚直史 長崎県
岡崎トミ子 宮城県
神本美恵子 比例代表
今野東 比例代表
谷岡郁子 愛知県
白眞勲 比例代表
藤谷光信 比例代表
松浦大悟 秋田県
松野信夫 熊本県
水岡俊一 兵庫県

衆議院議員
逢坂誠二(北海道8区 比例北海道)
郡和子(宮城県1区 比例東北)
近藤昭一(愛知県3区)
佐々木隆博(北海道6区)
篠原孝(長野県1区 比例北陸信越)
田島一成(滋賀県2区)
筒井信隆(新潟県6区)
平岡秀夫(山口県2区)
山田正彦(長崎県3区 比例九州)
横光克彦(大分県3区 比例九州)


MBS 自治労 相原久美子


http://www.youtube.com/watch?v=wuvf957Qjfs




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