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rekisisiranai
日本の戦争責任
責任なし43 中国軍黄河を決壊さす
これは「責任なし42 蒋介石を対手とせず」の続きです。
蒋介石が講和に応じないため、和平交渉は手詰まり状態となり、しばらくお預けに成りました。
その間、中国軍は自国民を盾に取る戦法に出ました。
昭和13年6月、開封の街が日本軍に占領されると、中国は、日本軍の追撃を断ち、かつ日本軍を水攻めにする為に、黄河の堤防を決壊させたのです。これは蒋介石の命令によるものです。
その水没流域は、最大幅約28キロ、長さ南北約120キロにも達しました。
日本軍のいた中牟では、水が城壁頂上にあと1mの所まで上がって来たといいます。
この洪水による被害は「水没部落約三千五百、罹災民約六十万人、行方不明約十二万人」に及びました。
この時、濁流に飲まれる住民を救ったのは、誰あろう日本軍です。
昭和13年6月23日の同盟ニュースには、濁流渦巻く水禍の中、ボートで救助作業をしている日本兵の姿が写真に写っています。
ところが、中国は卑劣にも、この犯行を「日本軍がやった」と嘘の報道を流したのです。毎度ながら良くやるものです。
‐‐‐‐
また、この後、中国軍は、揚子江の堤防をも決壊させました。
昭和13年6月26日の同盟ニュースには
“悪逆、暴虐、その極に達す 敵、揚子江堤防を決壊”
「悪逆の限り、黄河決壊の暴挙を敢えてなし、無辜の民幾十万かを絶望の淵にたたき込んだ蒋介石は、なんたる無謀か、
皇軍を怖るあまり、又しても進撃を阻まんとして、太湖南方揚子江両岸の馬華堤を破壊し、付近一帯の住民は濁流渦巻く大水害に見舞われんとし、怨嗟憤怒は地に満ちている」
とあります。
‐‐‐‐
中国軍は、自分たちが安全に逃げる、ただそれだけの為に、おびただしい数の中国人の生命と財産を犠牲にしたのです。
しかもお人好しの日本軍に自国民を救助させて。
“自国民に危害を加えて、敵(日本軍)に救助させる” という戦法は、世界広しと言えど中国くらいのものでしょう (しかも、助けられて日本人と仲良くなった者は、戦後、漢奸として裁かれます)。
この態度には先例があります。それは南京でです。
昭和12年11月27日に《ドイツ大使館のローゼンが「もしも最悪の事態になった場合、誰が秩序を守るのか、誰が行政官として残り、警察力を行使して暴徒が不法行為を行わないようにするのか」と質問すると、蒋介石もしくは唐は「そのときは日本人がすればいい」と返事した》とラーベが書いています。
中国は、便衣隊戦法によって秩序を破壊し、自国民を故意に地獄の苦しみに合わせながら、秩序を維持しようとしている、日本人を極悪の犯人に仕立てたのです。
‐‐‐‐
その他にも、中国は、黄河や揚子江の堤防を破壊した同じ6月に、毒ガスを使って住民に災禍を与えました。
昭和13年6月21日の同盟ニュースには
“山西の敗敵、妄動しきり 暴虐毒ガスを使用して挑戦”
「皇軍が黄河以南作戦のため一部兵力を移動している隙に乗じ、山西の敵大部隊は気勢を挙げ、徐州敗戦の汚辱を一挙に雪ぐべく、手段を選ばざる挑戦に出で、暴戻にも毒ガスを使用し、付近の無辜の民は、この惨禍を蒙るもの多く、正に人道上許し難し…」
とあります。
そして
昭和13年7月22日の同盟ニュースにも
“暴虐支那軍又も不法 イベリット糜爛性毒ガス使用”
「我が森本部隊の息をもつかせぬ猛攻撃に敗退一路を辿る支那軍は、張杏鎮において、又もや不法にも、猛烈爆発式撒毒管によるイベリット糜爛性毒ガスを使用、我が急追をはばまんと…」
とあります。
‐‐‐‐
中国軍は自分たちの安全のために自国民を盾にする事を何とも思っていません。
しかもその後始末は全部日本軍がやっているのです。
揚子江や黄浦江に沈められた大量の船や機雷の除去、中国軍が撤退の際に焼き討ちにした都市の後始末、堤防の修復、その他もろもろ。
その上で、日本軍が犯人と、逆宣伝をしているわけです。
つづく
●関連記事1
南京虐殺は嘘68・支那軍による虐殺8
黄河などの堤防決壊で32万人死亡
【悪逆、暴虐、その極に達す】
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/11480936.html
(一部抜粋)
『抗日戦回想録』郭沫若自伝より
――――――
あの時、黄河の堤防は開封の西北の五荘、京水鎮、許家堤等で同時に決壊した。わが方の対外宣伝では敵の無差別爆撃による、といっていたが、実はわが軍の前線の将軍が命令によって掘りくずしたのだった。
わが伝統兵法――「水、六軍を淹(ひた)す」だった。
しかし敵が水浸しになった程度はたかの知れたもので、むしろわが方の民間の生命財産が想像もつかぬ犠牲をこうむった。
――――――
●関連記事2
南京虐殺は嘘69・支那軍による虐殺9
違法毒ガス使用で住民諸共殺害
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/11546935.html
(一部抜粋)
支那派遣軍化学戦教育隊がまとめた【敵軍毒瓦斯(細菌を含む)使用調査】(内藤裕史編・解説『毒ガス戦教育関係資料』所収)によれば、
昭和十二年から昭和十五年にかけて、中国軍による毒ガス戦の事例は十三件、細菌戦の事例は二十件であった。
右の調査は、その年月日、場所、種類、方法、被害、概要を一覧表で記録している。
例えば、昭和十二年九月七日、宝山城付近にて中国軍はコレラ菌 を井戸に投入し、このためその井戸水を飲んだ日本軍及び中国人民数十名が罹患している。
また、昭和十三年七月二十六日、九江においても同様の理由で日本軍百二十九名、中国人民五百名の罹患者を出している。
また、重慶を脱出した国民党軍の元軍政部防毒処勤務将校の情報をまとめた【支那軍の化学組織系統の概要】(昭和十六年六月二十六日付、前掲『毒ガス戦教育関係資料』所収)によれば、
中国における毒ガスの研究及び製造は、「軍政部兵工署理化研究所」において行われていた。
中国は1926年3月、ソ連から一万発の毒ガス弾を購入し、1937年9月、第二次上海事変で細菌、猛毒兵器を使っている。
日本軍は中国軍から、大量のソ連製毒ガス兵器を押収している。
『細菌・毒ガス戦/中国が最初の違反者だった』信夫淳平博士
【昭和史研究會報】中村粲/第39、40より
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071130-00000003-scn-cn
【今日は何の日】1949年:解放軍が重慶を奪取
11月30日9時2分配信 サーチナ・中国情報局
1949年11月30日、重慶が共産党により「解放」された。中国では近代史上、共産党の支配地域になることを「解放」と呼ぶのが一般的。
第二次世界大戦終了後の1946年に始まった国共内戦は、47年ごろから共産党が優勢になった。共産党勝利が決定的になった49年10月1日には、毛沢東が北京で中華人民共和国の成立を宣言。同10月14日には人民解放軍(共産党軍)が広州を占領した。
重慶は日中戦争中の国民政府の臨時首都で、国民党は重慶に拠って最後の抵抗を試みる計画だった。
しかし解放軍が重慶に迫ると、国民党の幹部や兵士の多くは長江上流の成都に逃走。輸送機が日夜運航されたが、国民党幹部は座席の争奪戦を繰り広げたという。
(以下略)
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携帯電話爆発はうそ=作業員死亡、同僚を逮捕-韓国 |
11月30日1時0分配信 時事通信 |
【ソウル29日時事】韓国中部・忠清北道の採石場で男性作業員が死亡し、携帯電話の電池が爆発した可能性が指摘されていた問題で、警察当局は29日、同僚の男が建設機械を運転中に誤って作業員を死なせたと断定、この男を逮捕した。 |
韓国メディアによると、警察が遺体を司法解剖した結果、携帯電話の爆発が死因ではないことが判明。遺体の第1発見者だった男を改めて取り調べたところ、自らの過失を隠すために「携帯電話が爆発した」とうそをついていたことが分かったという。 |
――――― |
朝鮮人は嘘吐きだから今回は狂言だったが、携帯電話の電池が爆発するのは事実だ。 |
支那製の電池を携帯電話に使用、爆発して死亡した事故は実際にあったことなので要注意。 |
(一部抜粋) |
携帯電話が爆発、作業員死亡=原因は偽の電池か-中国 |
7月9日17時0分配信 時事通信 |
【北京9日時事】新華社電によると、中国甘粛省酒泉市金塔県の工場で6月19日、溶接作業員(22)が仕事中、胸のポケットに入れていた携帯電話が突然爆発し、作業員は死亡した。公安当局による初歩的な捜査の結果、携帯電話の電池が高温下で爆発したとみられ、充電式電池が偽物であるなど問題があった可能性も指摘されている。(以下略) |
実は、日本でも支那製電池が次々と爆発している。 |
危険! |
東京・中野区 学校で防犯ブザー用電池破裂 |
東京・中野区で小中学校に配布していた防犯ブザー用の電池が次々と破裂し、区が回収を始めた。 |
中野区立中野富士見中学校の職員室で24日、保管していた防犯ブザー用のボタン型電池が「パーン」という音を立てて破裂した。中野区によると、この電池は中国製で、今年3月に交換用として区内の全小中学校に約3万4000個配布されたもので、26日までに4校で計15個の破裂が見つかったという。(以下略) |
(日テレNEWS)2007年5月 |
支那にあるエアコン 93%が汚染 |
最悪の事例では国家基準の486倍に達した。 |
エアコン経由で風邪に感染したりアレルギー症状を起こすこともある。 |
レジオネラ病という危険な病気になる |
電池 破裂 |
東京都の小中学生に配布していた防犯ブザーの支那製ボタン電池15個が発熱して破裂した。 |
支那製オモチャ ヤケドする |
オーブン型のオモチャ。 |
食材を出し入れする開口部でヤケドをする事故が77件発生し、指の一部切断を余儀なくされた5歳の女の子がいた。 |
電池 爆発して死亡・有名ブランドの偽物 |
携帯電話に使われている支那製電池が爆発して死亡 |
モトローラの偽物だった。 |
支那製の扇風機 発火する |
「奥克斯」・「小天鵝」など4社の製品に、深刻な品質問題が存在しているという。 |
支那の新品の冷蔵庫 感電死する |
買ったばかりの冷蔵庫から氷を取り出そうとドアを開けた瞬間に感電し、死亡した。 |
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rekisisiranai
日本の戦争責任
責任なし42 蒋介石を対手とせず
これは「責任なし41南京、虐殺話の製作」の続きです。
日本は、南京陥落の後、またぞろ和平の話を持ちかけました。条件は前より少し厳しくなりますけど。参謀本部は最初、前のままでやるつもりだったのですが、内務大臣から「これで国民が納得するかね」と言われ、やむなく修正したのです。
そうすると蒋介石は案の定、講和を拒否しました。
昭和13年1月2日、ドイツ大使トラウトマンが返事を聞きに来ても蒋介石は会わず、変わりに王寵恵外交部長が会いました。
王部長が、「独大使が回答を催促している」と報告すると、蒋介石は
「日方所提条件等於征服與滅亡我国、與其屈服而亡、不如戦敗而亡之為愈」
(日本の条件は我が国を屈服して滅亡させる為のものだ、屈服して滅びるよりは、戦って滅びる方がよい)
と大声でわめき、王部長に「応即厳詞拒絶」 (断固、拒否せよ) と命じました。
その翌日、国民政府は正式に次のように決定します。
「否認将派代表赴南京與日方議和」 (日本との和平交渉の為に代表を南京に派遣することは認めない)
明確な和平拒否です。しかしながら、この決定は極秘にされ、独大使には伝えられませんでした。
‐‐‐‐
その為、日本が待てど暮らせど返事が来ません。日本は回答の期限を逐次延期してきましたが、しびれを切らして、12日に「最終期限は15日」と伝えました。
この日本の意思は独大使から王部長に伝えられます。
その時、独大使から聞いた話で “日本政府と大本営が連日会議をしている” との情報を王部長から聞くと、蒋介石は 「倭今日始知対華戦争非長期不可乎!」(それじゃ日本は、やっと中国との戦いが長期戦以外に無いと気づいたのか) と述べ、「それなら、中国はますます有利になる。国際情勢は必ず、反日親中国の味方をもたらす」と述べたのです。
何という事でしょうか。
日本は勝ち戦にも関わらず、こちらの方から和平を持ちかけているというのに。
厳しくなったと言っても、別に領土を要求しているわけではありません。前の条件が非常識なくらい譲歩していたので、少し戦勝国らしい体裁を繕っただけです。
日本は、被害者なのに辞を低くして和平を持ちかけ、常に善意で接しているのに、加害者の中国は負け戦でありながら、この態度です。
蒋介石は和平拒否の方針を決めていますので会議も開きません。その上で、王部長は独大使に回答文を手渡しました。
その内容は 「日本側の要求は漠然としているので、何も決定できない。具体的に示してくれ」 というものです。
この回答には、さすがのトラウトマン大使も唖然としました。さんざん待たされた挙句に何の討議もせず、時間稼ぎのこれです。
‐‐‐‐
この回答は、1月15日に大本営政府連絡会議にかけられます。
政府側は 「中国側に誠意なし、交渉を打ち切るべし」 と主張しましたが、軍部の方は 「打ち切るのは尚早、今一度、交渉すべき」 という態度でした。
参謀総長も 「詳細が中国側に伝わっているのかどうか、確かめる必要がある」 と言いました。
参謀本部や軍令部などは、中国の要求に応じて何としてでも講和に持って行こうとしたのですが、蒋介石の腹を見抜いた広田外相は断固打ち切りを主張しました。
ここに、 “軍部が和平を主張し、政府が戦争継続を主張する” という、逆転現象が生じたのです。
広田外相は 「永き外交官生活の経験に照らし、支那側の応酬ぶりは和平解決の誠意なきこと明瞭なり、参謀次長は外務大臣を信用せざるか」 と迫り、
政府側は内閣総辞職を掛けて臨んだので、統帥部も折れざるを得ませんでした。
(内閣崩壊は対外的に悪いイメージを与え、中国につけこまれるから)
そして、政府は1月16日 「爾後(今後)、国民政府を対手とせず」 と宣言しました。
これを、「近衛首相は早まった」と言う人もありますが、蒋介石に和平の意思が無い以上しかたのない事でしょう。
この後、日本は南京に自治政府を作らせ、長期戦に備えます。そして国家総動員法を制定しました。
これからは、蒋介石の望む長期戦です。
しかし、日本としては、あての無い、ゴールもなきゃ目標もない、いつ終わるとも判らない、前途暗澹たる戦争です。
多田次長は、それを恐れていたのです。
日本は、戦争を望んでいなかったのですが、中国がそのつもりだから仕方がありません。
つづく
●関連記事
責任なし26 蒋介石が仕掛けた上海戦
Yahoo!掲示板でrekisisiranai さんが語った真実の歴史
大山中尉惨殺事件→包囲攻撃→上海市街爆撃。(おまけ:松本重治の正体)
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/27316312.html
責任なし30 上海戦5 中国和平を蹴る
Yahoo!掲示板でrekisisiranai さんが語った真実の歴史
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/27488212.html
事実確認の大年表
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/24306196.html
━━━━━━━━━━━━━━
映画「南京の真実」第一部「七人の『死刑囚』」完成試写会
◆ 日程変更のお知らせ ◆
http://www.nankinnoshinjitsu.com/
━━━ 平成19年11月29日 ━━
平素は映画「南京の真実」製作に、ご支援、ご鞭撻を賜り、まことに有り難うございます。
皆様のご支援、ご協力のおかげで、映画「南京の真実」第一部「七人の『死刑囚』」の撮影は、あと数日のロケーション撮影にて、完了する予定です。
映画製作にはよくあることではありますが、さまざまな要因で、当映画の撮影日数が延びました。連日、朝早くから深夜まで、時には朝日を見るまで、と強行軍の撮影でした。
疲労から照明スタッフの1人が脚立から落下し、手首を骨折するという事故も起こりましたが、何とかほぼ無事に撮影を終えられそうです。
撮影は、緑山スタジオオープンセットでの実質6日間(セット建て込みとバラシは別で10日間)を終え、日活撮影所でのスタジオ撮影は、1日の休日もなく、連続12日間(建て込みとバラシで別に1週間)の撮影を終えました。
月末数日間のロケーション撮影を終えますと、オールラッシュ、粗編集作業やCG編集、色彩調整、劇音楽録音、整音、サウンドエフェクト入れ、音ダビング作業、フィルムキネコ起こし等々の作業と続きます。
これまで皆様に予告してまいりましたように、私たちはぎりぎりのスケジュールで、何とか12月14日に、完成披露試写をさせたいと努力してまいりましたが、
諸部門の様々なトラブルや撮影の延長等によって、完成された映画作品として皆様に見ていただくには、時間的にもう少し余裕がほしいとの声が、監督からも、他のCG処理や編集、音楽担当からも上がりました。
そこで、最も大切なのは、最良の状態の映画を作り上げ、皆様に観ていただくことだと判断し、12月14日の日程を変更させていただき、「1月完成披露試写」とさせていただこうと決断いたしました。
なお、12月14日は、兼ねてより予定しております九段会館にて、昼の部・夜の部共に「南京の真実」撮影完了報告大会という形で、当映画予告編をお見せする他、「南京の真実」についてのイベントをと企画しています。
南京陥落記念日の翌日の試写会を楽しみにしていた皆様には、まことに申し訳なく、お詫び申し上げますが、どうか、「南京の真実」の映画完成度を磨く時間をいただきたく、私たちの苦渋の決断をご理解をいただきますよう、何卒お願い申し上げます。
くらきより冥き道にぞ入りぬべき はるかに照らせ山の端の月 和泉式部
※12月14日並びに1月の試写会の詳細は、追ってご連絡させていただきます。
株式会社チャンネル桜エンタテインメント
映画「南京の真実」製作委員会
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