ペットボトルで共産党党旗
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071101-00000010-rcdc-cn
3000本のペットボトルで共産党党旗!第17回党大会を記念し学生が制作―重慶市
11月1日16時11分配信 Record China
2007年10月28日、このほど開催された中国共産党第17回全国代表大会(十七大)を記念し、重慶大学でペットボトルを使ったカラフルな中国共産党党旗が披露された。
(以下蛇足)
――――――
Yahoo!掲示板
投稿者 :
rekisisiranai
日本の戦争責任
責任なし17 盧溝橋事件前 共産党の策動
これは「責任なし16 テロ続発」の続きです。
反日扇動がいきすぎ、とんでもない数のテロや暴行、殺害等を生み出し、蒋介石は、日中全面戦争になるのではと恐れました。これだけやれば、いつ戦争になってもおかしくないからです。
しかし、日本は動きません。抗議と犯人の処罰を求めただけです。
参謀本部の石原莞爾第一課(?原文のまま)長は「対支作戦」を行う意思はないと言明しました。
むしろ、中国の方が積極的だったのです。
「いつ対日戦争を開始するのか」と蒋介石につめよっていました。
しかし、蒋介石にとっては、後ろで、反乱を起こし領土を拡大している共産党のほうが気がかりでした。後顧に憂いを残しては対日戦争は戦えません。だから先に共産党を討伐し天下を平定しようと、張学良を共産党討伐の総大将に命じたのです。
ところが、張学良は共産党と組んで蒋介石を捕らえ、共産党の討伐をやめさせ対日戦争をやるよう約束させました。
共産党は、国民党軍と日本軍とを戦わせて、その間に自らの勢力の拡大を図るつもりだったのです。蒋介石は、そんな事は百も承知だから動かなかったのですが、対日私怨に燃える愚かな張学良には、そんな事は解りません。
その頃、ソ連のコミンテルンは、日中全面戦争を仕掛けるためのプランを作成し、その実行を、中国共産党に命じました。
その内容は
一、あくまで局地解決を避け、日支の全面的衝突に導かねばならぬ。
二、右の目的を貫徹するため、あらゆる手段を利用すべく局地解決(例えば北支を分離せしめることに依って戦争を回避するの類)日本への譲歩に依って支那の解放運動を裏切ろうとする要人を抹殺してもよい。
三、下層民衆階級に工作し、これをして行動を起こさしめ、国民政府をして戦争開始のやむなきに立ち至らしめなければならぬ。
四、党は対日ボイコットを全支那的に拡大しなければならぬ。日本を援助せんとする第三国に対してはボイコットを以て威嚇する必要がある。
五、紅軍は国民政府軍と協力する一方、パルチザン的行動に出なければならぬ。
六、党は国民政府軍下級幹部、下士官、兵士並びに大衆を獲得し、国民党を凌駕する党勢に達しなければならぬ。
というものです。
(「盧溝橋事件に関するコミンテルンの指令」昭和14年10月興亜院政務部資料)
共産党は、コミンテルンの指示に従って、対日戦争のための工作を開始しました。
1937年、1月から6月にかけて、日本の軍用電線がしばしば切断されるので、日本側は河北省政府主席馮治安に取り締まりを要求しましたが、全くのなしのつぶてでした。
この馮治安配下の部隊のある西苑の兵営では、よく学生の軍事訓練が行われていて、そこには共産党の劉少奇が出入りし、学生たちにアジ演説を行なっていたのです。
その頃、北京・天津地区には謡言が乱れ飛んでいました。
「日本軍は近く華北で事を起こし第二の満州国をデッチ上げる」とか
「日本軍は戦略要衝盧溝橋に基盤を築き、北寧・京満鉄道を支配下に置くべく、目下隠密裏に工作をすすめている」とか、はたまた
「七夕の夜に華北で第二の柳条溝事件が起る」等という物です。
この謡言の出どころについては、北京憲兵分隊長赤藤庄次少佐は「…どうも西苑の学生層から出ているらしい。そうすると共産党の策動も考えられる」と言っています。
この謡言を警戒した、参謀本部の石原少将は「若い者が何かしでかさん様に」と岡本中佐を華北に派遣しましたが、日本側に、そのような動きはありませんでした。
(寺平忠輔著『盧溝橋事件』読売新聞社刊 昭和45年発行より抜粋要約引用)
後に、中国は、文革の前ごろ
「七、七事変(盧溝橋事件)は劉少奇率いる救国抗日学生の一隊が決死の覚悟で引き起こしたものである。‥‥結果として、日本帝国は滅び、欧米租界も一掃され、蒋介石も台湾に追い出されてしまった。最後に勝利したのは我々の方であった」
と高らかに公表しました。
これは私の記憶ですので、原文とは少し違っているかも知れませんが、大体こんな所です。
今はとぼけていますけど。
尚、この記事が何年何月何日の何新聞だったかは判りません。
私は、目が乱視の近視で老眼になっている為、大量の縮刷版を漁るのに耐えられません。悪しからず。
つづく
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のコメント欄に [ moresleep1987 ] 君から、以下のようなコメントを頂戴した。
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そのような認識はかなり一面的ともとれますね~。
実際、満州において政治・経済・軍事の実権は全く日本軍が握っていましたね。是を実質的な植民地と言わずして何というのでしょうか?さらに満蒙開拓団の入植問題もありますね。本当に自立的な国家を建設するためなら、入植者の為に先住の人々を囲い込んだり、追い出したりしませんね。また、平頂山等の虐殺事件も想起されるべきでしょう。あれを、防衛というのであれば、世の中の虐殺行為のほとんどが正当防衛となってしまうでしょうね。私には五族協調がむなしく見えてしょうがありません。
2007/10/29(月) 午前 1:47 [ moresleep1987 ]
――――
果たして、満州国は、日本の実質的な植民地だったのだろうか?
満州で日本軍は、政治・経済・軍事の実権を握って、やりたい放題やっていたというのは本当だろうか?
また、「平頂山事件」は、防衛ではなく虐殺事件だったのだろうか?
答えは、いずれも「NO」だ。
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・「私たち日系官吏は・・・白人の勢力のもとにあって苦しんでいるアジア人を彼らの束縛から解放し、諸民族協和による理想国家の建設を行うことを志したもので、これを満州の地にあって実現しょうとしたものである。」
・「私たちは『征服者』としてではなく、『奉仕者』として満州国建設に当ったと信じている」
・「私たちは、満州を植民地としてではなく、現地住民と一体となり、複合民族国家として自立する理想国家を建設しょうとしたのである」。
武藤富雄元明治学院大学長『私と満州国』
・満州国政府は行政を行う上で、国防や国内の治安を守る関東軍の意向を重視しなければならない事情が基本的にあった。ことに支那事変以降は、「関東軍あっての国家の存続」という状況となり、関東軍の指導が強化された。
・満州国総務庁次長を務めた古海忠之氏は内面指導について、「この権限を利用して日本の国益をはかり、その線に沿って満州国の政治行政を歪曲指導するようなことはできることではなく、またしたこともなかった」
国際善隣教会編『満州建国の夢と現実』
・在満日本人は、列強が過去において、植民地統治のため採用したところの異民族相互の対立相克や助成政策や、低文化無教育政策乃至は繁殖力推進政策の如き権謀欺瞞政策は、断じてこれを排撃した」
服部卓四郎『大東亜戦争全史』
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よく傀儡だと言って満州国を認めない者がいるが、傀儡か傀儡でないかの判定は困難だ。
満州国を傀儡だとすれば、当初の共産支那や北朝鮮や南朝鮮は、満州国以上の傀儡だった。
共産支那や北朝鮮や南朝鮮の3馬鹿国家は、何時までが傀儡で、何時からが独立国家なのか?
それとも、馬鹿3国は、未だに傀儡のままなのか?
次に、「平頂山事件」だが、これも日本で訴訟を起こしたりして、いろいろと捏造や数字の誇張が多いが、真相は以下のとおり。
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平頂山事件
1932年9月、満鉄が経営する撫順炭坑は匪賊襲来の情報を入手し、警備を増強。
守備隊は約200名しかいなかったため、炭鉱では施設を鉄条網で囲み、従業員の在郷軍人で防備隊を結成し、警察団、青年団、中学生なども非常時には応じる体制をとっていた。
9月15日夕方、郊外に匪賊が集結中との情報を得て、防備隊600名を非常召集、警官約200名を加え、それぞれ配置についた。
15日夜、約1,000人と思われる匪賊が撫順炭坑を襲撃し、日本の防備隊と戦闘が繰り広げられた。
匪賊は撫順内部の通匪(スパイ)から警備状況を通報されており、防備隊の裏をかいて手薄な個所を狙って来た。
日本側に死者5名を含む11名の死傷者が出た。
(社員の渡辺寛一楊柏堡所長以下、殉職4名・重傷2名。家族の死亡1名・重傷2名、守備隊の負傷2名)
また、施設は、破壊・焼却・掠奪され、その後、炭鉱業務は暫く停止を余儀なくされた。
井上中尉は襲撃の足がかりとなった平頂山が、最も通匪の嫌疑が濃厚とにらみ、約40名を率いて調査したところ、前夜の襲撃現場からの盗品が続々と見つかり、平頂山の住民が匪賊と行動を共にしていたことが明確になった。
平頂山村民の多くが撫順炭坑を襲撃した匪賊の一味だったのだ。
10月2日付満州日報、「匪賊の再襲来や焼討ち事件のため、撫順付近の支那住民の3分の1が撫順を離れ、郷里の山東方面へ避難」
10月15日付満州日報、「匪賊の被害者に撫順県公署が救済開始」との記事が掲載されており、その記事には、平頂山村の人口が1369人であったこと、うち死者400人であったとある。
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過剰防衛と考える人もいるかもしれないが、防衛だったことは間違いない。
[ moresleep1987 ] 君たち反日左翼が主張するような単なる村民大虐殺事件でなかったことは明白だ。
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