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投稿者 :
rekisisiranai
日本の戦争責任
責任なし8 満蒙独立運動1
これは「責任なし7 満州事変の背景」の続きです。
満州国の設立に際して、関東軍は清朝の廃帝溥儀を皇帝に迎えますが、これは単なる関東軍の陰謀ではありません。この裏には“満蒙独立運動”というもう一つの側面があるのです。
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話は、義和団事件にまで遡ります。
義和団を鎮圧した際、近衛篤麿(近衛文麿の父)ら東亜同文会の人たちは、清朝が余りに弱体化している事に気づき、“このままではロシアの南下を防げない、安全保障の面から「支那保全」が必要”と考えました。
そこで清朝の体制内改革を期待し行動しようとしたのですが、時の政府の方針(内政干渉したくなかった)と合わず、妨害され思うように進みませんでした。
一方、別の方面から、清朝の再建を助ける者がありました。
義和団の乱の時、清朝が義和団に加担して参戦し北清事変となったので、連合軍は北京を占領しました。連合軍は城への攻撃を主張したのですが、日本軍は平和解決を望み、川島浪速が「紫禁城の開城は私にお任せ下さい」と中に立って説得にあたったのです。
川島の必死の勧告で城内の兵は降伏し無事被害もなく解決しました。北京占領後、日本軍は市内の一区画の警備を割り当てられ、川島は警察制度の改革に着手します。
民政権が連合軍から清国側に移ったあと、清国は川島の借用を日本に依頼しました。
そこで川島は北京に残り清朝の改革に協力する事になります。
この時、川島は粛親王と懇意の仲になりました。その粛親王の妹が内蒙古のカラチン王妃だったのです。
ある時、カラチン王を大阪で開催される内国勧業博覧会に極秘に招くという動きがありました。
カラチン王の来日に際し、福島安正少将と王との間に日蒙親善の一環として女子の教育機関を作ることで一致、その一つとして川原操子が蒙古に行き、王の子弟の教育に携わることになりました。
日露戦争中は後方攪乱のため、横川庄三や沖禎介が王宮に立ち寄っています。
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明治39年末、粛親王は川島と暖炉を囲みながら日中両国の提携を力説、このような親交を経て二人は義兄弟の契りを結んだのです。ところが辛亥革命が起こり、彼らの努力は無駄になりました。
川島や近衛篤麿のような人達は、孫文の行動を“革命ごっこ”と見て快く思っていません。
海軍軍令部嘱託の宗方小太郎は、「為す所児戯」、「統一的に共和政治を実行する事はできまじく」、「群雄割拠で…」と酷評し、上海駐在の加藤荘一郎中佐は「留学生の幼稚なる理想」、「この後も紛擾が続いて収拾すべからざる状態に陥る」と言って、実際、その通りになりました。
(ここまで、波多野勝著『満蒙独立運動』PHP新書2001年3月刊行より抜粋要約引用)
‐‐‐‐
一方、清朝に征服されていた蒙古やチベット等の諸民族は、清朝が無くなったのだからと独立を宣言します。
ところが中国は、これを許しません。自分たちが満州族の支配を排して独立したにも拘らずです。
当然、満州も自分とこの物と考えています。
この考えの不自然さに気づかない日本人が沢山います。
満州族から独立した中国が、「満州は自分の物」と言うのは、日本から独立した韓国が「日本は韓国の物」と言うのと同じ事です。
そして中国が「蒙古やウィグル、チベット、台湾等を自分の物」と言うのは、韓国が「台湾や南洋群島を自分の物」と言うのと同じ事なのです。
満州族が中国を支配し《同様に蒙古やウィグル、チベット、台湾等を支配していた》のです。
それは、日本が韓国を支配し、《同様に台湾や南洋群島を支配していた》のと同じ事です。
そんな中国の理屈が通るのなら、韓国が日本や台湾を自分の物という理屈も通ります。
こう言えば、中国の言うことの不自然さが解かるでしょう。
彼らの理屈は泥棒の理屈です。他人の物は俺の物、俺の物も俺の物という理屈。それは侵略者の理屈です。
中華五千年の侵略者の理屈なのです。
ハッキリ言ってこれは他民族に対する中国の侵略です。
問題は中国には“侵略しているという意識が無い”という事です。
そういう中国の身勝手な理屈から満蒙独立運動が始まります。
つづく
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(参考)
――――――
日本は満州国の建設についてこう説明するのだ。
満州がかつて中国の一部だったことはない。
全く逆で、中国のほうが満州帝国の一部だった。
満州人が北京に在って中国を統治している限りは、2つの地域の間に関係はあるだろう。
しかし、万里の長城が証明しているように、満州王朝の統治時代でも、満州の各省は中国の境外の地と考えられていたのだ。
1912年の革命で満州王朝は倒れた。
これによって中国と満州の法的関係は切れたにもかかわらず、西洋列強は満州は中国の一部であるという擬制(フィクション)を続けている、と日本はいう。
・・・
日本の説明では、満州の独立運動は長い時間をかけてはぐくまれ、現地住民が自発的に張の悪政からの独立を宣言できるところまで、熟成していたのだ。
P292-293
『アメリカの鏡・日本』ヘレン・ミアーズ著(1948年)
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