正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現
嘘の歴史に騙されるな!日本最優先政治、日本国民の生命と財産と自由を守る核武装、日韓断交を実現しよう!マスゴミの嘘や洗脳工作を許すな!がんばれ!日本国民党!
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9月18日は満州事変勃発(柳条湖事件)記念日(2)・支那人「寧ろ日本の支配を」・無責任な国連決議・事変後の治安回復と発展・満満蒙独立運動、復辟運動、張作霖の独立宣言、満州事変、満州国建国の年表

9月18日は満州事変勃発(柳条湖事件)記念日(1)
満州と支那は別物
満州事変以前は張作霖、張学良親子が率いる武装盗賊が強盗殺人をやりたい放題
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/25369930.html

の続き







●満州事変勃発後の支那人などの反応


――――――
寧ろ日本の支配を
紐育タイムス北平通信(1931年10月20日)
 数千の満州避難民(大部分富有階級の支那人)の談話を綜合するに彼等は連盟の主張するが如き現状の回復を望まず。彼等の満州より避難し来れるは支那兵及び土匪の乱暴を恐れたるが為めにして日本兵を恐れたる結果にあらず。彼等は張学良の秕政に苦しむよりは日本の支配下に生活せんことを欲す。蓋し満州の支那軍閥は通貨を下落せしめ、人民の生産物を無価値の紙幣を以て強制的に買上げて外国の金貨に代へて巨利を収め、人民の租税は悉く軍隊の支払に充つる有様なるを以て、張学良の復帰を見るよりは寧ろ日本の支配下に新なる支那政権樹立せられんことを望むものなり。蒙古に対する支那の悪政は更に甚だしく、官吏は土地を押収し重税を課し人民を飢饉に陥れる有様にて人民は徐々に奥地に逃れつつあり。特に最近日本兵より武装を解除せられたる支那兵は蒙古に入込み掠奪放火を恣にし居る有様にて、蒙古人は支那の悪政より免がるる為め日本の支配を歓迎せんとする状態なり。
――――――






ところが、国際連盟は、満州国不承認と、日本軍の鉄道付属地への撤退を決議した。

――――――
 日本が国際連盟の勧告に従わなかった事実は、大いに利用されている。
国際連盟は、他のどのようなことを討議するよりも前にまず日本軍が撤収することを強要したのである。
一部の人たちが考えているように、国際連盟のこの態度は、この事件の事情に鑑みて、正当なものとはみなし得ないかもしれないのである。
日本軍の立場は、国境を侵した軍隊の立場とは異なっていた。

 「まったく安全な自国の国境線内に軍隊を撤収させることと、容易に包囲されうる外国領土内を走る鉄道沿線へ軍隊を撤収させることは、まったく事情が異なるのである」。
この命令は連盟によって発せられた独断的なものである。
「しかしながら、だれでも、この命令が実行されることもなければ、またそれを実行させることもできないということを承知していたのである。もし日本がこの威嚇に屈服し、その軍隊を撤収した暁においては、満州は以前よりもはるかに恐ろしい無政府状態および悪政に委ねられたことであろうと思う」。
連盟自身は満州に立ち入って、その秩序を回復しうる手段をもっていなかったのである。
また同様に連盟は、日本軍の安全を保障しうる手段をも有してはいなかったのである。

P696
東京裁判研究会編『共同研究 パル判決書(上)』(講談社)
――――――



現在のイラク情勢も同じだ。

混乱しているイラクから米軍が撤退したら、イラクはどうなってしまうのか?

今重要なのはイラクの治安確立だ。

ひとたび破壊された秩序を回復することなしに米軍が撤退すれば、それこそ無責任だ。



当時の日本軍も、国際連盟が鉄道付属地への撤退を決議しても、「ハイ、そうですか」と撤退するわけにはいかなかった。

当時の国際連盟は、自らなんらの努力をすることなしに荒唐無稽な勧告をした。

そしてそれは、歴史的経緯に何ら基づかない事実誤認の裁定だった。

満州での警察行動(盗賊追放)に責任を持つ日本は、国連を脱退した。

国連は満州国を承認して国際社会に参加させ、日本の影響力を漸減させるべきだった。

国連が承認しなかったから日本は益々影響力を強め、満州国の国家確立と治安維持と発展に注力しなくてはならなくなった。






●事変後の目覚しい治安回復と発展


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昭和8年ロンドンタイムズ紙は「独立2ヵ年の満州国」に関する報道記事で、次のように論評している。

「外来の訪客は過去1ヵ年に於ける満州国の財務上の迅速な進歩に驚くであろう。通過は安定した。一文の値打ちもない旧軍閥の不換紙幣の洪水に悩まされていた満州国にとって、これだけでも計り知れぬ恩恵だ。」「満州国に於ける在留外人は外国商権の将来に関して懸念を抱いていることは勿論だが、大体日本人の施設に対して好感を抱いている。やろうということを実際にやる実践的な日本人を相手とすることになって助かったというのだ。30年も前から支那人がすぐ始めようと言っていた各般の計画がいまや着々実施されるに至った」「満州国は既成事実だといわねばならぬ。2ヵ年前に於ける日本の行動の是非は、極東の現状乃至将来に対して最早関連のない事柄だ。満洲は今や『啓蒙的開発』というのが最も適切な過程を経過している。啓蒙的な一番いい証拠は、三千万の民衆がこの過程から恩恵をうけていることだ。」

『大東亜戦争への道』中村粲著
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 リットン報告書によれば馬賊は中国の歴史全体を通じて辿ることが出来、且つまた中国の行政体がこれまで一度として完全に鎮圧出来なかったものでもある。その馬賊の問題に関連して、日本当局の「満州における日本軍部隊の存在は、主要な馬賊グループを2~3年で消滅させてしまえるだろう」という主張は今や実質的に実現された。
 満州国誕生後2年半の間に、かつて鉄道沿線はおろか町や村などにも出没していた馬賊は事実上鎮圧された。いわゆる満州事変の発火点となった1931年9月18日夜の奉天での運命的な衝突事件が起きる以前は、満州に十万人前後の馬賊がいた。事件直後にその数は21万人にまで増えたが、それは敗残兵の多くが馬賊の仲間入りをしたためである。しかし今ではその数は僅か3万人にまで減少し、彼らは事実上吉林省の森に被われた丘陵地帯に追放されてしまっている。

「満州国の最近の発展」 
1934年11月23日、フィラデルフィアのアメリカ政治社会科学アカデミーにおける斎藤博(駐米大使)の講演
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――――――
1934年末、満州を訪れたイギリス産業連盟の使節団の調査報告

 『満州国住民は治安対策の向上と秩序ある政府を与えられている。 軍(満州事変以前に、満州を牛耳っていた軍閥)による略奪と摂取はなくなった。課税制度は妥当なもので、公正に運営されている。住民は安定通貨を持つことができた。輸送、通信、沿岸航行、河川管理、公衆衛生、診療施設、医療訓練、そしてこれまで不足していた学校施設などの設備計画が立てられ、実施されている。こうしたことから、満州国の工業製品市場としての規模と将来性は容易に想像することができる。
 近代国家が建設されつつある。将来に横たわる困難はあるが、これらは克服され、満州国と他の国々の利益のために、経済繁栄が徐々に達成されるものと期待される』
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Japan On the Globe
地球史探訪:満洲 ~ 幻の先進工業国家
傀儡国家、偽満洲国などと罵倒される満洲国に年間百万人以上の中国人がなだれ込んだ理由は?
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h14/jog239.html

(抜粋)


完成後に見学に訪れたフィリピン外相は、次のような歓声を発したという。

『フィリッピンは、スペイン植民地として350年、アメリカの支配下で40年を経過している。だが、住民の生活向上に大きく役立つものは一つも作っていない。満洲は建国わずか10年にしてこのような建設をしたのか』
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【年表】
満蒙独立運動、復辟運動、張作霖の独立宣言、満州事変、満州国建国

●1911年、辛亥革命が起こる

●1912年
1月、中華民国成立宣言。首都:南京
モンゴルやチベットなど諸民族も独立宣言
2月2日、清朝の皇族・粛親王、川島浪速らの手で北京を脱出、旅順に保護【第一次満蒙独立運動】

●1916年、蒙古馬賊の巴布札布(パプチャップ)が日本軍部や旧清朝の粛親王の後押しを得て軍事行動【第二次満蒙独立運動】

●1917年
4月30日、張作霖が国民政府から独立を宣言
7月1日、張勲が北京で宣統帝の復辟を宣言。康有為らが参加

●1922年5月12日、張作霖が東三省の独立を宣言

●1924年11月29日、溥儀が日本公使館に移る

●1925年2月23日、溥儀が北京の日本公使館を出て天津の日本租界に移る。復辟をめざす鄭孝胥や羅振玉らが側近となる

●1927年
3月24日、南京暴動(第一次南京事件)
7月25日、張作霖が満鉄併行線敷設禁止協定を無視して満鉄併行線を建設。米国は張作霖に資本提供

●1928年
5月3日、済南事件。北伐軍が山東省済南市に入城、邦人経営商店での略奪行為をきっかけに日本軍と衝突。日本の被害は、戦死9名、負傷32名、居留民の惨殺14名、暴行侮辱30名余、奪被害戸数136戸、被害人員約400
6月4日、張作霖が爆殺される
7月、支那兵たちの一団により東陵(清朝代々の皇帝の墳墓)が爆破・盗掘される。溥儀は国民政府に抗議

●1931年
6月27日、満州で中村大尉殺害事件。満州を地理調査中の中村大尉が行方不明になり、やがて支那人部隊に殺害されたと判明
7月2日、万宝山事件。満州の長春の北にある万宝山で朝鮮人農民(日本国籍)が支那人農民に襲撃されたため、朝鮮の各都市で朝鮮人が支那人を大虐殺。
排日運動がさらに激化
米国は張学良に兵器工場建設を援助

★9月18日、柳条湖事件(満州事変勃発)
関東軍が張学良軍を追放
遼寧省、吉林省、黒龍江省、コロンバイル等は独立を宣言
満州各地の代表が溥儀に出馬要請
11月10日、溥儀、天津を出発

●1932年3月1日、満州国建国宣言。首都:新京(長春を改称)
溥儀、満州国の執政(国家元首)に就任
9月15日、日本が満州国を承認

●1934年3月、溥儀、満州国の皇帝に即位








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9月18日は満州事変勃発(柳条湖事件)記念日(1)・満州と支那は別物・満州事変以前は張作霖、張学良親子が率いる武装盗賊が強盗殺人をやりたい放題

9月18日、柳条湖事件76年

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070919-00000006-jij-int


柳条湖事件76年、各地でサイレン=日本国旗燃やす騒ぎも-中国
9月19日2時1分配信 時事通信

 【北京18日時事】1931年に中国東北部・奉天(現在の遼寧省瀋陽)で、旧日本軍による満州事変の発端となった柳条湖事件が起きてから18日で76年。中国メディアによると、国内各地でサイレンが鳴らされ、「国の恥を忘れず、中華を振興させる」との呼び掛けが行われた。
 ただ、昨年10月以降に実現した日中両国指導者の相互訪問を受け、日中関係の改善に向けた動きが加速。今年7月7日の盧溝橋事件(日中戦争発端)70周年と同様、メディアを含めて愛国主義をあおる動きは少なかった。瀋陽の日本総領事館によると、中国人2人が18日夜、瀋陽市内で日本国旗を燃やすなどした。一部群衆が「反日」スローガンで同調したが、大きな混乱はなかった。
――――――






9月18日は、満州事変が勃発(柳条湖事件)の日だ。

1931年9月18日、関東軍が張学良率いる武装盗賊の満州からの追放を開始した。

満州事変は、関東軍が満州から盗賊を追い出した警察行動だった。

3,000万人の満州住民の強い要請と支援によって、たった1万人の関東軍が、30万人の武装盗賊(張学良)を追放することに成功した。



そもそも満州は支那ではなく満州と支那は別物だった。




●満州と支那は別物

・支那4千年の歴史で漢民族が満州を支配したことは辛亥革命後まで一部分を除いて殆んどなかった。
(漢民族の王朝が全満州地域を支配下においたことは、明代の一時期を除いて、一度もなかった。しかし、満州南部の遼西・遼東地域は戦国時代から漢民族系農耕民の居住世界であり、度々漢民族王朝の支配下におかれた)

・三民主義(内一つが民族独立)を掲げて辛亥革命を行ったくせに、チベットや蒙古の独立宣言を認めず、袁世凱は侵略をした。

・中華民国政府が清朝と結んだ『退位協定』には、「大清皇帝は辞位後も皇帝の尊号を廃止せず、中華民国は外国君主に対する礼を以てこれを待遇する」とあった。

・溥儀は自らの意志で満州国皇帝になった。

・国連加盟国が約50カ国しかなかった時代に、満州国を世界の20カ国以上が承認。

・鉄道や都市開発等は日本をも凌いだ程で、事変前の人口3千万人が10年後の1941年には4千3百万人に急増。






「満洲」というのは、トゥングース系の言語である「満洲語」、自称 manju gisun を話す満洲族が住む地域のこと。

シナ語では、地域は「満洲」Manzhou,民族は「満族」Manzu,言語は「満語」Manyu.

英語では「満洲」は Manchuria,モンゴル語では Манж(ローマ字轉写すると Manzh)になる。

もちろん、トゥングース民族はロシア・シベリアにもいる。






【「民族」の独立】が辛亥革命の目標(基本政策)の一つだった。

【辛亥革命】
革命運動の目標(基本政策)として、「民族」の独立、「民権」の伸張、「民生」の安定、という3つ「三民主義」を掲げた。
1911年10月、孫文の中国革命同盟会が湖北省の武昌で反乱をおこすと、16の省がつぎつぎと清朝からの独立を宣言。
各省代表が南京に集まり、1912年には、孫文を臨時大総統に中華民国臨時政府を成立させた。




辛亥革命で満州王朝(大清帝国)から独立する支那人たちが、「満州と支那は別物」、「満州は支那にとって外国」と認識していたのだから、辛亥革命における『独立』は当然満州王朝(大清帝国)からの『分離独立』を意味する。


胡漢民は「支那と満州は別物」と強く主張し、孫文も「支那革命は万里の長城以北には関係せぬ」と述べていた。


――――――
同盟会創立当時の機関紙民報に「支那革命党の弁駁書」と云う胡漢民の大論文を翻訳して載せてある
其の内容は『国民新聞』が満州政府は支那政府である
何の為に支那人が革命を必要とするかと論及したのに対して、支那と満州は別物である
之を同一視するには支那の歴史を知らぬものであると国民新聞を痛切に駁論して居る処と、孫公が露西亜亡客ドクトルゲルシヨニの懇請を退けて、支那革命は万里の長城以外には関係せぬと断然ことわつて居る処と、・・・

久保田文次編『萱野長知・孫文関係資料集』、232Pより
※萱野長知著『中華民国革命秘笈』序文から抜粋された個所
――――――






孫文以下の指導者も「中国にとっては満州は外国であり、革命成功の後は、満州問題は日本に一任する」と公言していた。

――――――
 その理由は「革命同志会」の標語は「倒満興漢」であり、清朝を倒して元来満州人である清国政府をその故郷満州に追い返すことを主張していたからである。
機関紙『民報』は「日本と革命中国の国民連合」を唱え、孫文以下の指導者も「中国にとっては満州は外国であり、革命成功の後は、満州問題は日本に一任する」と公言していた。
彼らは革命後にも漢民族の勢力は満州までは及ばず、清朝は満州帝国を再建して、ロシア帝国と手を結び、漢民族の敵国となるだろうと予想していたのである。
林房雄著『大東亜戦争肯定論』
――――――



満州が支那ではないことは、支那人の英雄・孫文が言っていたのだ。



また、中華民国政府が清朝と結んだ『退位協定』には、「大清皇帝は辞位後も皇帝の尊号を廃止せず、中華民国は外国君主に対する礼を以てこれを待遇する」とあった。


そして、大清帝国と列国が締結した各種条約は、革命後、最初の支那政権、即ち袁世凱政権がそれを継承するといった。

袁政権崩壊後は、支那各地の軍閥政権が、その都合に応じて、例えば、借款が欲しいとかいう都合に応じて継承するといったり、突然豹変して関係ないといったり(例えば、塩税や釐金税の徴収権など)など、支那は到底『主権国家』等といえる状態ではなかったが、その都度、列国が認める時の中央政府が形式上継承している形だった。

しかし、その都度態度が変るため、列国は権益保持のため軍隊を駐留させ、軍閥政権が発作的に起す暴挙に対応する準備をしていた。

以上が、『大清帝国後の各種支那政府』と諸外国との条約関係から見た継承関係だ。




更に日本の場合、今から100年以上前、日本を守るためにはロシアに侵略されそうだった朝鮮を守らなければならなかった。

そのため、日本軍は満州でロシア軍と戦った。

日露戦争後、関東州の租借地(遼東半島)と南満州鉄道が日本のものになった。

それらの守備をするために関東都督府陸軍部が置かれた。

そして、1919年に関東軍となった。







●満州事変までの満州では武装盗賊が強盗殺人をやりたい放題


張作霖、張学良親子は、武装盗賊の頭領で、満州で強盗殺人をやりまくっていた。

――――――
清国衰弱と共に満州には多くの中国人が流入し、日本の後援を受けた張作霖が独立国とした(張作霖、張学良が満州の民衆を搾取していた実態や、張作霖の度重なる危機を関東軍が救った話は古野直也氏著の近著「張家三代の興亡」が好著である)。
 張作霖父子は中国征服に乗り出し、20年先の税金まで一般人から取り、日本や朝鮮人にも法外な税金を徴収したり、土地、会社などを没収したりしたので日本に対する忘恩行為と言われたが、特に朝鮮人は虐待された。
(略)
 当時、朝鮮人は日本人だったが、日本人としての権益を認めず、朝鮮語、朝鮮服の使用を禁止したり、朝鮮学校の没収を行い、帰化を強制し、あげくには帰化朝鮮人まで追放し、殺害、略奪の対象になった。

『ノモンハン事件の真相と戦果――ソ連軍撃破の記録』小田洋太郎・田端元著
――――――






当時、支那が世界平和に対する脅威だったと『リットン報告書』も述べていた。

――――――
 支那に於ける主導的要素は徐々に行われつつある国民自体の近代化なり。
現代支那は其国民生活のあらゆる方面に於いて過渡的証跡を示しつつ進展しつつある国家なり。
政治的擾乱内乱、社会的及経済的不安は中央政府の衰微をもたらすとともに1911年の革命以来支那の特徴となりたり。
之等の状態は支那の接触し来れるあらゆる国家に不利なる影響を及ぼし来れるものにして、匡救せらるるに至る迄は常に世界平和に対する脅威たるべく又世界経済不況の一原因たるべし。

『リットン報告書』
――――――






以上のことから満州事変は、関東軍が満州から武装盗賊を追い出した警察行動だったことが良く分かる。


当時の満州には【3,000万人】の「満州人・蒙古人・支那人・日本人(朝鮮人含む)・ソ連人」が住んでいた。
張学良が率いる盗賊軍は、約【20万人~30万人】だった。
関東軍は、【1万人】だった。

これは、人口3,000人の村に、30人の武装窃盗団が蔓延って居て、1人の警察官が居た状況と考えれば良い。
たった1人しか居ない警察官は、3,000人の村民の強い要請や支援がなければ、30人の武装窃盗団を村から追い出すことなんて不可能だよ。

つまり、張学良の盗賊軍30万人を満州から追い出し、満州国を建国したのは、1万人の関東軍だけの力では到底不可能であり、3,000万人の満州住民の強い要請と支援があったからこそ実現したということなんだ。

【たった1万人の関東軍が、30万人の張学良軍と3,000万人の満州住民】を相手に「侵略」など出来る訳がない。




(続く)









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