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正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現
嘘の歴史に騙されるな!日本最優先政治、日本国民の生命と財産と自由を守る核武装、日韓断交を実現しよう!マスゴミの嘘や洗脳工作を許すな!がんばれ!日本国民党!
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アジアが夢見た開放と大東亜共栄圏 。アジアを奴隷にしていたのは日本ではなく欧米。チャンドラ・ボース。日本が実現した現地政権には権威があった。『アメリカの鏡・日本』ヘレン・ミアーズ著25(最終回)


 第二次大戦中、米国と日本は法的擬制の応酬をする不幸な癖に災いされていた。
米は「世界を征服し奴隷化する」野望に燃えた軍国主義的侵略者、日本の姿に囚われすぎ、日本が「白人ブロック」の「奴隷体制」から太平洋地域と「アジアを開放する」というスローガンの下に、日華事変と第二次大戦を戦っていることを見ようとしなかった。
仮に見えたとしても、このスローガンは米にとって法的擬制だった。

しかし、米国の法的擬制より、日本の見せ掛けを信用したアジア人はかなりいる。
1931年の満州から1941年のインド国境まで、日本が破竹の勢いで進出できたのは、アジア・太平洋諸国をヨーロッパの政治・経済的支配から解放するという大亜細亜建設計画(大東亜共栄圏)のダイナミックな革命的魅力に負うところが大きい。

 アジア・太平洋地域の植民地には、もともと経済的支配からの政治的独立と自由への渇望がくすぶっていた。
日本のプロパガンダと指導は、それに火をつけたにすぎない。
初めの頃、若干の例外はあったが(フィリピンはその一つ)、アジアと英仏蘭植民地で日本が勝てたのは、現地協力者の活動があったからだ。
開戦当初の日本は、殆ど銃火を交えることなく戦火を収めている。

 ヨーロッパのアジア「領有者」たちは、日本軍から逃げたというより、現地住民の敵意から逃げた。
米国が「解放戦争」と呼んでいたものは、実はヨーロッパによるアジアの再征服(恥ずかしいことに、アメリカが手を貸した)だったのだ。

 ルーズベルトは1944年8月12日の声明で、アジアの民衆は日本の奴隷になることを望んでいないと言った。
全くその通りだ。

しかし、歴史的にみてアジアの民衆を奴隷にしていたのは日本ではなく、米国が同盟を結ぶヨーロッパの民主主義諸国であることを、ルーズベルトは言わないのだ。

 日本は当然のことながら、アジアの人々に対して、アジア或は太平洋地域の領土を併合したり、支配しようという意図或は希望は毛頭持っていないと繰り返し宣伝していた。
日本はただアジアをヨーロッパの支配から自由にしたいだけである(米国が南アメリカをヨーロッパの侵入から守っている様に)。
そして、アジアの民が互いに協力して自分たちの資源と文明を発展させることができるようにしたいのだ、というのが日本の主張だった。

 日本の主張によれば、アジアでの日本の役割は単に指導者と守護者にすぎない。
アジア・太平洋地域の民衆が西洋列強から開放された暁には、日本がアメリカが南アメリカとの間にもっているのと同じ関係を、彼らとの間で持つことになるだろう、というのが日本の主張である。

 アジアを開放したいという日本の願いは「聡明な利己主義」即ち法的擬制から出たものであり、したがって、結局はその実現方法は野蛮であるという前提に立つにせよ、日本がその擬制を信用させるために、アメリカと同じところまで、そしてヨーロッパ諸国よりははるか先まで、行っていたことを認める必要がある。



 日本は現地住民に独立を約束した。
それだけでなく、独立を保障する具体的行動を進めていた。
1935年にはすでに、満州での治外法権を放棄していたし、1940年には中国に正式に約束し、1943年には中国政府に租借地を返還した。
大戦中日本は、実際に、占領した全ての地域に現地「独立」政府を樹立していった。

 例えば、フィリピンは1943年10月14日に「独立」を獲得している。
これは米国が二度目にフィリピンを「解放」する数年前のことである。
ビルマは1943年8月1日に独立した。
マレー、インドネシア、インドシナに現地政権ができた。

マレーではインドの代表的指導者、チャンドラ・ボース率いる自由インド臨時政府が樹立された。
ボースは英国に宣戦布告し、インド人部隊を編成して日本軍と共にインド進撃を目指した。
今日、インドの代表的指導者の中には、英国の政治的撤退を早めたのは、真に平和を願う指導者の長く実りのない平和的手段ではなく、ボースの隠然たる脅威、「忠誠心のない」英印軍、そして日本軍だったという人もいる。


 こうして各地で独立を宣言した植民地政権を、西洋列強は法的擬制と呼び傀儡と言う。

しかし、フィリピンを例外として、これらの政府に参画した現地の人々が、戦争の最中でさえ、過去のどこの同じような現地政権より権威をもっていたことは事実である。

P367-374
『アメリカの鏡・日本』ヘレン・ミアーズ著(1948年)








日本が破竹の勢いで進出できたのは、アジアを欧米から解放する大東亜共栄圏の実現を現地人が夢見たところが大きかった。

ルーズベルトは、日本がアジアを奴隷にしたと非難したが、アジアを奴隷にしていたのは日本ではなく欧米だった。

日本は現地住民に独立を約束し、独立した現地政権は、戦争の最中でさえ、過去の欧米の現地政権より権威をもっていた。





25回に亘って気まぐれに紹介してきた『アメリカの鏡・日本』ヘレン・ミアーズ著(1948年)は今回でお終いです。

ご覧頂いた皆様、ありがとうございました。






大東亜戦争
祖先の目指したもの
彼らの功績

http://www.geocities.jp/baud_2005/japan.html


私達の先人は大東亜戦争を戦ったのです
http://www.geocities.co.jp/Bookend/9304/daitoua.htm


日本への感謝を綴った「日本人よありがとう」という書物の序文に書かれた一編の詩
マレーシア元上院議員 ラジャー・ダト・ノンチック

http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/6646/vol4.html







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李登輝氏(台湾前総統)が靖国神社を参拝・どうして李氏の靖国参拝に支那が反発するのか?・読売新聞は意味不明な記事を書くな!あほんだら!


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070607-00000103-yom-int


李・前総統が靖国神社参拝
6月7日13時5分配信 読売新聞

 来日中の李登輝・前台湾総統(84)が7日午前10時過ぎ、東京・九段の靖国神社を参拝した。

 同神社には第二次大戦中、日本軍人としてフィリピンで戦死した実兄、李登欽(日本名・岩里武則)氏がまつられており、参拝を終えた李氏は記者団に感想を聞かれ、「62年ぶりに兄に会えて、涙が出ます」と話した。
中国政府は李氏を「台湾独立派の代表」とみなしており、反発を強めるものとみられる。


 参拝には、曽文恵夫人と作家の三浦朱門、曽野綾子夫妻らが同行した。

 参拝前に都内のホテルで記者会見した李氏は、「(兄と私は)二人兄弟で仲が良かったが、62年前、(台湾南部の)高雄で別れたままとなった。うちには遺髪も遺骨も位牌(いはい)すらない。いまは靖国に(魂が)残されているだけとなっている」などと説明、政治的な意図がないことを強調していた。
―――――――






>中国政府は李氏を「台湾独立派の代表」とみなしており、反発を強めるものとみられる。



正直言って、この読売新聞の意味が分からない。

どうして、台湾独立派が靖国神社を参拝すると、支那政府が反発を強めるのか??

読売新聞は、どんな理由で支那が反発するなどと言っているのかきとんと説明してみろ。

あほんだら!






所謂A級戦犯とされてしまった方々が合祀されたのは1978年だが、その翌年には合祀のことをマスコミは報道していた。

その合祀以降も、大平正芳首相や鈴木善幸首相などが靖国神社を参拝したが、支那は文句など言わなかった。



支那が日本の首相の靖国参拝に文句をつけ始めたのは、朝日新聞が今回の読売新聞のように支那をそそのかした後の1985年以降で、それ以前は何の異議申し立ても行なわれていなかった。

――――――
1959年
靖国神社が「公務死」と認定された「戦犯」を初めて合祀

1978年10月
天皇陛下にA級戦犯合祀が上奏され、秋季例大祭前日の霊璽奉安祭で合祀

1979年
大平正芳首相が春と秋の例大祭に靖国を参拝し、国内メディアは合祀と首相の靖国参拝について執拗に報道

1979年12月
大平正芳首相は夫人を伴って支那を訪問、支那は大平正芳首相を熱烈大歓迎。「中日友好医院」建設、対支円借款などを約束

1982年9月
鈴木善幸首相が支那を訪問、(北京政協礼堂で)日支国交正常化10周年記念講演

1984年3月
中曽根康弘首相が支那を訪問、「日中友好21世紀委員会」発足、4700億円の円借款供与で合意
――――――






元A級戦犯合祀(1978年)━⇒━⇒━⇒━⇒支那が首相の靖国神社参拝に反発(1985年)
この間の日本の首相の靖国神社参拝



大平正芳首相
1979(昭和54)年から1980(昭和55)年にかけて3回
(1979年4月21日・同年10月18日・1980年4月21日)

鈴木善幸首相
1980(昭和55)年から1982(昭和57)年にかけて9回
(1980年8月15日・同年10月18日・同年11月21日・1981年4月21日・同年8月15日・同年10月17日・1982年4月21日・同年8月15日・同年10月18日)

中曽根康弘
1983(昭和58)年から1985(昭和60)年にかけて10回
(1983年4月21日・同年8月15日・同年10月18日・1984年1月5日・同年4月21日・同年8月15日・同年10月18日・1985年1月21日・同年4月22日・同年8月15日)






いずれにせよ、李登輝さんが念願叶って靖国神社を参拝できたことは本当によかった。







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