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小学生が「鉄道を盗まないで!壊さないで!」【支那】湖南・一昨年にはケーブルボックスが盗まれ列車衝突事故・日本でも相次ぐ金属盗難・その背景は?

【中国】湖南:小学生が「鉄道を盗まないで! 壊さないで!」
4月11日19時7分配信 サーチナ・中国情報局
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070411-00000029-scn-cn&kz=cn

 湖南省衡陽市の小学生たちが11日、「鉄道を大切に」と訴える活動を展開、町行く人々に「人や家畜が鉄道を歩いては危ない」「鉄道設備を盗まないで」「壊さないで」と呼びかけた。

 中国では電線などの鉄道設備が盗まれる事件が各地で起きている。05年7月に6人が死亡、30人が負傷した遼寧省の列車衝突事故はケーブルボックスが盗まれたことが原因だった。中国新聞社が伝えた。(編集担当:恩田有紀)








支那で電線などの鉄道設備が盗まれまくっている。


2005年7月には、電線等のケーブルを中継するケーブルボックスが何者かに盗まれ、信号が正常に作動しなかったことが原因で、6人が死亡、30人が負傷した列車衝突事故があった。

下の記事参照








瀋陽列車事故:ケーブルボックスの盗難が原因
2005/08/02(火) 10:34:43更新


 遼寧省・瀋陽駅付近で31日夜に起きた列車追突事故について、何者かにケーブルボックスを盗まれたことにより、信号が正常に作動しなかったことが原因であることが、その後で調べで明らかになった。1日付で中国新聞社が伝えた。

  事故は、陜西省・西安市発、吉林省・長春行きの旅客列車K127便が貨物列車に追突したもので、30人が負傷、6人が死亡した。

  事故発生直後に派遣された鉄道部事故調査チームの調べによると、電線等のケーブルを中継するケーブルボックスが何者かに盗まれ、信号が正常に作動しなかったこと、また列車運転手も前方の貨物列車の確認が遅れたことが原因であることが分かった。

  この事故で不通になっていた長春市と遼寧省・大連市を結ぶ長大線は、1日午後1時に上下線とも運転を再開している。(編集担当:伊藤亜美)










今年になると、日本でも金属泥棒が相次いだ。

ところが、意外と犯人は捕まらない。


下の記事は珍しく犯人が捕まった最近の一例








金属くず盗んだ中国人3人逮捕 天理署=奈良
2007/02/07, 読売新聞

 6日午前11時40分ごろ、天理市庵治町の資材置き場で、男女3人が、置いてあった鉄やアルミニウムなどの金属くず約670キロ・グラム(時価7万円相当)を、近くのワゴン車に運び入れているのを、所有者のスクラップ業の男性(49)が発見し、天理署に通報。駆けつけた同署員が、3人を窃盗の現行犯で逮捕した。
 逮捕されたのは、いずれも無職で中国人の劉強(32)(大阪市平野区長吉長原)、劉国成(43)(同区長吉出戸)、李月梅(46)(同所)の各容疑者。調べに対し「ゴミで持ち帰っていいと思った」と容疑を認めているという。
 資材置き場では1日にも金属が盗まれており、同署で関連を調べている。








必ずしも、支那人だけが犯人ではないのだろうが、犯人は支那人が多そうだ。

最近の金属泥棒について包括的に述べた記事がある。








工事用の鉄の板、屋根の銅板、側溝のふた、銅線の束。
昨年、全国

【河北春秋】
2007/03/02, 河北新報



 工事用の鉄の板、屋根の銅板、側溝のふた、銅線の束。昨年、全国で被害額が約20億円に上った金属盗難の一端だ。水門の門柱まで盗まれた

▼「電線泥棒が横行した昔を思い出す」と知人は言う。暮らしが貧しかった半世紀前の話のよう、と。昨今の金属ドロがつながる闇はもっと深い。転売を重ねた盗品の流れる先は海外と警察はみる

▼金属資材の高値が続く。銅くずは数年間で4倍以上に。背景に中国での需要増がある。北京五輪を控える現地は建設ラッシュだ。競技場や道路、地下鉄、再開発。「高く売れると思った」とは昨年、銅くず密輸容疑で捕まった中国人船員らの供述

▼3年後に上海で中国初の万博もある。ちょうど高度経済成長期の日本の姿が重なる。好景気の中国には世界中から、工場や資材のみならず、莫(ばく)大な投資マネーが集まる。株もブーム過熱という

▼「バブルが進行し、投資家は警戒を」。中国の要人が最近、こんな警鐘を鳴らしていた。世界が肝をつぶした先日の同時株安も、上海の株急落が引き金。「米国がくしゃみをすれば…」のたとえはもう古い

▼盗まれた金属には、火の見やぐらの半鐘まで。被害に遭った茨城県常総市のある町内会長は「江戸の初めからの大事な宝なのに」と腹を立てる。人の欲はまことにあさましい限り。










銅などの金属泥棒の背景には、北京五輪を控える支那での建設ラッシュによる需要増があるという。

しかし、背景には北京五輪だけではなく、支那の猛烈な軍拡による金属の需要増があるという説もある。

尤もな説だ。










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外交青書、支那の軍事費増加や衛星破壊実験に懸念
現実を直視すれば核ミサイルが必要
安倍や麻生は怠けたいので支那の実態を知らない振りして核武装を避けている
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山東出兵・済南事件・張作霖が爆弾で暗殺される・張学良は親日の楊宇霆を殺害し、国民党の南京政府に接近・『世界政治と東亜』G・F・ハドソン著14

 国民党の特に激しい反日感情を思えば、満州において親日的張作霖の独立的支配を保持することは明らかに日本の利益であった。
1927年から29年まで続いた田中大将の政友会内閣は、国民党の、揚子江下流から北京への進出を阻止し、満州から安全な距離の所に食い止めようと努力した。
日本は、多数の在華日本臣民の生命財産を保護するために山東省に出兵した。
そして1927年3月の南京事件があってからは、支那以外の如何なる国もその駐屯に抗議することはできかねた。
だが、日本軍の駐屯はまた、国民軍の北上阻止にも役立った。



 1928年5月、山東の首都斉南において日本軍と支那国民軍との衝突が起こり、日本軍は国民軍を撃破して斉南を占領し、国民軍がそれ以上鉄道によって北京へ進出することを許さなかった。

だが、南方からの進出の阻止は、西方からの北京の脅威を排除し得なかった。
そして張作霖が山西軍の強圧下に窮地に陥ったことが明らかになるや、日本政府は新しい行動をとった。


 日本政府は北京、南京政府に対し、次のような声明を発した。
『満州の平和と秩序を脅威する如き険悪状態に立ち至るならば、日本政府は、満州の平和と秩序を維持するために、適切有効なる手段をとらざるを得ないであろう』と。

これは即ち日本が山と海に挟まれた山海関の狭い海岸通路において北京=奉天間鉄道を遮断する決意を示したものである。
張は同通路遮断以前にその軍を満州に還すように警告された。
もし敗戦の張が勝ち誇った国民軍に追撃されて同地に至るならば、日本の哨兵線の通過を許されないであろうからである。

張はこの命令に従い、戦わずして北京を撤退した。
だが、察するに彼は、日本の指令には甚だ不満であって、むしろ山西軍との間に一戦を賭すことを欲したように思われる。

彼は北京を発って奉天へ直行したが、その列車が満鉄線と京奉線の交差する鉄橋下を通過する刹那、爆弾でやられた。
この暗殺の計画者及び動機は今日まで不明であるが、張の参謀長楊宇霆がそれに関係あることは想像される。
当時、張の蒋介石に対する接近説が伝えられていた。
蒋介石は前に既に2回まで張に提携を申入れていたのだが、満州の独裁者は自身満々でそれを斥けていた。
だが、北京を失った今となっては、張の気も挫け、政策の転換も考慮しかねない気持ちであったことだろう。
一方楊宇霆は、満州を支那本土から完全に分離すること――事実1個の満州国を作ること――を望んでいたといわれる。



 陰謀者たちは、張作霖の嗣子張学良は父の地位を継ぐ能力がなく、楊宇霆が実権を握ると考えていたかもしれない。
ところが張学良は、王朝的世襲権にでもよるかのように直ちに父の後を襲い、自分の意思を持った人間であることを示した。
日本は、彼が南京政府と取引の手を打つのを極力妨げようと努力したが効がなかった。
彼は、分離主義の存在を取引の梃子に用いて南京と交渉した結果、満州における彼の独立性をさして損なうことなしに支那の国政に関与する権利が得られるような協定を結んだ。
彼は南京16人の国民政府委員の1人に任じられ、満州の三省及び熱河省の督弁としてその行政を総監することになった。
その代償に彼は、満州に国民党旗を掲げ、且つ国民党支部の合法的存在を許容した。
1932年1月10日、張学良は楊宇霆の殺害によって完全に親日派の覊絆を脱した。
楊宇霆は張学良の招待した饗宴の席で射殺されたのである。


P191-192
『世界政治と東亜』G・F・ハドソン著(1939年)










国民党の北伐軍が北京など北支へ進軍する通り道となる済南には日本の巨大な権益が集中しており、重要な鉄道分岐点でもあった。

その済南を守るための日本は「山東出兵」を行なったが、ジョン・ヴァン・アントワープ・マクマリー著『平和はいかに失われたか』にも、1927年の南京事件の二の舞を予防するための日本の措置は正当だと述べられている。

そこを何事もなく国民党の北伐軍が通過すれば良かったのだが、衝突が起きてしまった。

その際、国民党の北伐軍による日本人居留民10人以上の虐殺事件も発生した。
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/11800672.html


一方、張作霖は日本の命令に従い戦わずして北京を撤退し、満州の奉天に向かう途中、爆弾にて暗殺された。

張作霖の息子の張学良が予想外に後継者となったが、彼は蒋介石の国民党南京政府に接近して反日政策を行った。

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