正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現
嘘の歴史に騙されるな!日本最優先政治、日本国民の生命と財産と自由を守る核武装、日韓断交を実現しよう!マスゴミの嘘や洗脳工作を許すな!がんばれ!日本国民党!
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加藤紘一「憲法が争点では参議院選挙に負ける」と安倍首相を批判(街頭演説で)

加藤紘一が演説で、「憲法改正を争点にすると参院選に負ける」と言っているそうだ。

民主党は、憲法改正を争点にすることを嫌がっていたはずだ。

要するに、加藤は、支那の代弁者だる自分が憲法改正反対だから、こんなことを言ってるだけとしか考えられない。

民主党も憲法に関する見解を明確にして選挙を正々堂々と戦ってもらいたい。

ちなみに、参院選での私の期待は、「維新政党・新風」の議席獲得です。

維新政党・新風      http://www.shimpu.jpn.org/ 
靖国神社清掃奉仕有志の会   http://www5f.biglobe.ne.jp/~yasukuni-houshi/
がんばれ新風!応援団ブログ  http://simpu-oendan.jugem.jp/
新しい風を求めてNET連合  http://shinpuren.jugem.jp/



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憲法争点では参院選負ける 加藤氏が批判

 自民党の加藤紘一元幹事長は28日、名古屋市内で街頭演説し、夏の参院選について「憲法では選挙に負ける」と述べ、安倍晋三首相が主要な争点として憲法改正を掲げようとしていることを批判した。

 加藤氏は、国民は年金や医療、少子化対策など生活にかかわる問題に関心を持っていると指摘した上で「それを堂々と安倍政権が議論しないと、国民はどこかではぐらかされたという気持ちを持つのではないか」と強調した。

(2007/01/28 22:21)
http://www.sankei.co.jp/seiji/seikyoku/070128/skk070128008.htm
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土器、鉄器、水稲(水田稲作)、勾玉、前方後円墳…人類史上、朝鮮半島が日本列島よりも先進地域だったことは一度たりともない



人類史上、朝鮮半島が日本列島よりも先進地域だったことは一度たりともない。




・1万年を超す日本の文明(土器)

 かつて土器のルーツといわれた西アジア(メソポタミア)の壺は、最古のものでも約8000年前である。それに対し、日本列島では、およそ1万6500年前にさかのぼる土器が発見され、現在のところ世界最古である。のちに表面に縄目の文様がつけられたことから、縄文土器とよばれる。西アジアの土器は食べ物の貯蔵用のものだが、縄文土器は早くから煮炊きに用いられ、底に加熱の跡を残している。


縄文、古さケタ違い 1万6500年前の土器(青森)........四大文明より遥か前に土器・この地でなぜ?
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/6593059.html






・鉄器の使用開始時期は、日本と支那のどちらが早いか判っていない。

現在、最古とされる鉄器は福岡県の弥生早期の遺跡から出土した板状鉄斧(てっぷ)だが、今回の測定結果を当てはめると、その遺跡の年代は紀元前9世紀前後となり、支那で鉄器が工具などとして普及し始めたとされる春秋・戦国時代(紀元前770年~)と肩をならべてしまう。






・また、水稲は日本から朝鮮半島に伝わったことが明らかになっている。

日本から朝鮮半島への米の伝播について・稲作の伝播のまとめ
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/12585608.html






・勾玉

勾玉とは縄文時代より伝わる日本固有の装身具で、古代から権力者の力を象徴してきた。縄文時代中期の長者ヶ原遺跡からは、ヒスイの大珠や勾玉、加工道具、工房跡などが続々と出土され、6000年前の世界最古の勾玉文化が実証された。

勾玉の材料となる翡翠自体東アジアでは日本の糸魚川でしか産出されず、その美しい翡翠で作った勾玉は支那や朝鮮半島の権力者達を魅了してきた。

現在朝鮮半島で見つかっている勾玉の大部分が日本からの交易品であり、新羅の王冠にも勾玉が使用されているのも注目したい。





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新羅、百濟、皆以倭爲大國、多珍物、並敬仰之、恒通使往來。
『隋書 列傳第四十六 東夷 倭國』
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●仁徳天皇陵

仁徳天皇陵は、三段で構成された墳丘と三重の濠が巡らされている日本最大の前方後円墳で、エジプトのクフ王のピラミッド、中国の秦の始皇帝陵と並び、世界三大古墳の一つといわれています。

その遺物は長持形石棺から、刀剣・甲冑・ガラス製の壺と皿、葺石や埴輪などがあり、埴輪には人物(女子頭部)や水鳥、馬形、家形などが出土しています。東側の造出しから須恵器の甕が出土しました

アメリカのボストン美術館には本古墳出土と伝えられる細線式獣帯鏡や単鳳環頭太刀などが所蔵されています。

全長約486m、後円部径約249m、高さ約35m、前方部幅約305m、高さ約33m
 


Spec Sheet  全長(Length) 全幅(Width) 全高(Height)
仁徳天皇陵   486m 300m 35m
ギザのピラミッド 229m 229m 147m
秦の始皇帝陵  245m 340m 53m




●韓国にも前方後円墳があります

日本の前方後円墳が3~5世紀に作られたのに対し韓国の前方後円墳は5~6世紀に作られていたことが分かってきた。
さらに韓国の前方後円墳の出土物に日本の埴輪に酷似した土器類が発見されたのだ。

内洞里古墳群 1号墳
全長56m

月桂洞古墳
全長46.5m


日本と韓国の前方後円墳
http://s01.megalodon.jp/2008-1025-1447-29/bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&nid=111940&tab=five







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南京虐殺は嘘83・民衆を虐殺する支那軍・民衆を救出する日本軍

●支那軍による支那民衆大虐殺と、支那軍による大虐殺から支那民衆を大救出する日本軍


支那軍は支那民衆を大虐殺したが、日本軍は支那民衆を大救出した。





■1938年春頃の支那軍による強盗殺人から農民を護る日本軍

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私家版の片山兵二著『郷土部隊と共に歩んだ「わが青春の中国大陸従軍譚」』(昭和52年)
 
以下は佐藤己三男准尉から聞いた南京陥落から四ヶ月後の湯山の模様。

 「どうも油断がならなくてね。昨夜も付近烽火を合図に数十名の敗残兵が現れ、良民から金品を強奪して行きました。そのため毎日討伐をやり、警戒を厳重にしていますよ」(347頁)


 大坪鉄三郎准尉と長倉久徳一等兵が語る、湯山の南の句容の状況。

 「この近くの部落へ十五名ばかりの強盗がやってきて、主人(農夫)を竈の上に吊り上げ、火あぶりにしたが、それが丁度、憲兵隊が使っているコックの実家なので、すぐに報告があり、今朝二手に分かれて討伐をやったのです。・・・奴らの残忍性にはあきれます。

 農民を火あぶりにした上、金を奪い取り、憲兵隊へ密告せば命がないぞと脅していくので、農民はブルブル震えて仕事が手につかないのです、そのためわれわれが行くと喜び親しんでイスをすすめ、お茶を出して歓待してくれますよ」(349頁~350頁)

『1937南京攻略戦の真実』東中野修道編著(小学館文庫)より引用
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■1938年6月の支那軍による黄河の堤防決壊から罹災民を救い出す日本軍

1938年に支那軍が黄河の堤防を決壊し、住民30万人以上を大量殺害した時にも、支那は「日本軍の犯行」と宣伝したが、日本軍は濁流に飲まれる支那住民を救っていた。
6月23日の同盟ニュースは、濁流渦巻く水禍の中、ボートで救助作業をしている日本兵の姿を写している。
また、國史図書刊行会編『支那事変』にもその時の写真が掲載されている。





■1938年10月、支那軍による清野作戦から支那人老婆などを救い出す日本軍

10月21日、日本軍は広東に突入したが、支那軍は街に火を放って退却した。
國史図書刊行会篇の『支那事変』の255頁には、市街はもうもうと上がる黒煙と炎で包まれ、これを珠江の対岸から見ている日本兵の姿が写っている。
また、256頁には、逃げ遅れた老婆を背負って避難地まで運んでいる日本兵の姿も写っている。
バックは物凄い黒煙である。





■1942年、大飢饉と支那軍の取りたてで300万人の餓死者が出たが、餓死寸前の支那農民に軍糧を放出した日本軍

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中国小説 農民の飢餓救った日本軍
邦訳本出版
2006/04/09, 産経新聞
(一部抜粋)
一九四二年、大飢饉で河南省の農民を救ったのは、日本軍だった-。そんな歴史の真実をとらえ、ロングセラーとなっている中国小説がこのほど日本で翻訳出版された。劉震雲さん著、劉燕子さん翻訳の「温故一九四二」(中国書店)だ。
 同小説は日中戦争の最中の一九四二-四三年、河南省を襲った干魃による被災民三千万人、餓死者三百万人という大飢饉の状況を農民、蒋介石ら指導者、米国人記者、日本軍の立場から多面的に描き出した。
 飢饉の原因は天災だけでなく、中国軍の容赦ない軍糧のとりたてのせいでもあった。その中で、日本軍は餓死寸前の農民に軍糧を放出した。
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http://www.blackchina.info/archives/4586/comment-page-1#comment-251

支那人ブロガーの李天天氏が、以前蘇州の友人から聞いた抗日時代の話を発表した。以下はその意訳。

抗日戦争時代、彼がまだ幼い頃に兄と遊んでいると、丁度その村に日本軍がやって来た。兄はとても怖くなって逃げ出してしまった。一人の日本兵が彼を抱き上げた。兄は弟が殺されると思っていたが、日本兵はリンゴの木から実をもいで、彼と兄に渡してくれた。老人に聞くと「日本人は中国と戦争をしても、一般人を殺すのではなく、軍隊とだけ戦うのだ。国民党も同じで、戦争は軍人のすることなので、一般人の助けを必要としない」と言っていた。


しかし共産党はそうではなかった。共産党は常に一般人の抗日参加を発動し、一般人に日本兵への邪魔をさせ、不意打ちを仕掛けさせ、日本兵が通る橋を壊させ、地雷をしかけさせた。常に共産党は一般人を使って日本兵を襲わせた。その結果、本来一般人を攻撃する気が無い日本兵はとても苦しめられ、一般人とも戦うようになった。これは全て共産党が一般人にやらせたことであって、もし一般人が戦争に加わらなければ、戦争による犠牲はあんなに多く無かった。

地雷によって殺された日本兵は、実のところあまり多く無かった。それより仕掛けた一般人自らがその犠牲となるのが常であった。やはり映画のようにはいかないものだ。





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日本から朝鮮半島への米の伝播について・稲作の伝播のまとめ

農学、植物学、生態学の分野では米の伝来ルートについては支那南部から直接伝来したという説が定説だったが、考古学、歴史学の分野では朝鮮半島経由という考え方が有力だった。

しかし、7,8年前からまず考古学の分野から変化が起き、次第に支那南部から直接伝来した説が有力になって、現在ではほぼすべての学界で定説になっている。また支那の稲作研究界ではむしろ水稲種は日本から朝鮮半島に伝播したという説が有力になっている。

この流れが加速したのは主に2つの理由がある。

遺伝子工学の分野からの研究の成果、もう1つは支那政府機関が20年以上かけて満州で行った品種の調査だ。この2つが決定打になり朝鮮半島経由で米が伝来した可能性がなくなった。


順を追って説明すると、米には品種特性を決定づける遺伝子が7種類ある。このうち古代から現代に至るまで日本で発見された米の遺伝子は2つしかない。日本に存在する遺伝子をNO.1とNO.2とする。

NO.1とNO.2の遺伝子はそれぞれ温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカという品種の特有遺伝子だ。

次に稲作の発祥地である支那はもちろんNO.1からNO.7まですべて揃っている。

朝鮮半島の米はNO.2からNO.7までの6種類が揃っているが、NO.1だけは存在しない。これは気温が低いと存在できない遺伝子のため支那北部より北では存在できないためだ。
この辺の事情は「栽培稲に関する種生態学的研究」(松尾孝嶺著)に詳述されている。


往来が盛んになればなるほど、多くの種類の遺伝子を持つ米が入る確率が高まるが、日本には2種類しかないのが確認されていて、これが稲作開始の初期から広く分布していることから、米の伝来はごく限られた回数で特定の地域から伝来したと考えられる。

近年、炭素14年代測定法という最新の年代測定法の成果で朝鮮半島の稲作より日本の方がかなり古いことが分かってきている。日本の稲作開始は陸稲栽培で6700年程度前まで、水稲栽培で3200年程度前まで遡ることが判明している。

これに対し朝鮮半島では水稲栽培は1500年程度前までしか遡れない点、九州北部と栽培法が酷似していることや遺伝子学的に日本の古代米に満州から入った米の遺伝子が交雑した米が多いことなどから、水稲は日本から朝鮮半島へ、陸稲は満州経由で朝鮮半島へ伝わったことが判明した。支那政府の研究機関でも調査が進み間違いないという結論が出ている。

また、支那南部の日本の米の起源と推定される地域は熱帯ジャポニカも温帯ジャポニカも同時に存在しているので、両者を1品種ずつ持ってきたと考えられる。

往来回数が多くなると別遺伝子品種が紛れ込む可能性が高くなるので、古代人が遺伝子選別技術を持っていない限りはこの地域だけから流入したと考えるしかない。



また朝鮮半島の米はNO.2の遺伝子が70%を占めるので、米が朝鮮半島に導入された初期段階でNO.2の遺伝子が多く伝わっていなければならない。日本から2種類の遺伝子を持った米が朝鮮半島に渡ったものの、NO.1の温帯ジャポニカ種は朝鮮半島に根付かずNO.2の遺伝子のみが広まり、そこに満州から米が入ってきて、NO.2の遺伝子を持つ米と交雑したと考えると朝鮮半島の米に遺伝子的な説明が付く。

支那にはすべての遺伝子が満遍なくあるので、特定の種類の遺伝子だけを多くして朝鮮半島に伝えるのは無理だ。


韓国の学界には古代朝鮮人が遺伝子を見分ける何らかの術を持っていて、仕分けをした上で日本に米を伝えたとする説を唱える学者もいるが、願望というか発表の際に興奮気味に意地でも朝鮮半島から日本に米が伝わったことにしたいようにしか見えない。どうやって遺伝子を見分けたかを説明していないので相当に無理がある説だ。

韓国の学者は学術的見地よりも感情が先に出ているので非常に相手をしにくい。実際にBSEの研究会をイギリスで開催した際は韓国からは招待者なしという事態もあった。


米の伝来は支那南部から日本へ来たものであることを説明したが伊勢神宮にはこれを裏付けるような伝承がある。

「米は斉の御田から天照大神が持ってきた」(斉は現在の中国山東省)というもので、現在の学界では日本の米は支那の山東省付近という説がもっとも有力だ。

また、同地域にも一部部族が日本へ渡ったとする伝承がありこれを裏付けている。


さらに台湾の学者が鵜飼に着目した研究をしているのだが、これも日本への米の伝来が支那からであることを裏付けている。

鵜飼の風習は支那の楚の国(現在の湖南省と湖北省とその周辺)とその稲作文化圏である四川省、雲南省、広東省など中国南方の地方によく見られる。日本でも普通に見られる。

ところがこの鵜飼は朝鮮半島では古来まったく見られない。台湾や琉球文化圏でも鵜飼の習慣はない。このことは最初に米を日本へ持ってきたのが、支那南部の楚に起源を持つ人たちで経由なしで直接日本に伝来させたことを裏付けている。その人達が伝えた鵜飼が日本に広まったということだ。


なお、日本の品種改良技術は奈良~鎌倉時代に飛躍的に伸びたが、飛鳥時代にも籾の選別技術等が確立しており、5世紀頃には単位収量がアジアでトップクラスになっている。

日本が朝鮮を併合した時に朝鮮に日本の耕作技術が移出され、単位収量が併合前に比べて2.2倍という爆発的増加をみたが、これは灌漑設備の他、植物防疫、施肥法の伝授によるものだ。単位収量の増加は挑戦における生活の安定をもたらし、食料計画の研究資料によると摂取カロリーが一日あたり併合前に比べて一人あたり400カロリー、摂取タンパク質量が一人あたり7グラムも増えた。栄養状態の大きな改善などにより併合後の朝鮮の人口は2倍以上に増加した。

支那も朝鮮と同程度の収量であったことなどをみると日本の稲作技術は20世紀初頭のアジアでは飛び抜けてトップであったことが伺える。




出典:Yahoo!掲示板







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