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戦犯合祀は官民一体作業・大原康男・國學院大學教授「明日への選択」平成11年7月号より

これまでに、元戦犯が靖国神社に合祀されたことは、当時の日本国民の総意によって制定された法律に基づいていたことの説明がなされた。


国民の総意による合祀の基準となったキーワードは、「戦争による公務死者」であった。


元戦犯が靖国神社に合祀された背景や経緯から判ることは、富田メモの最も重要な部分である以下の


 「私は 或る時に、A級が合祀され その上 松岡、白取までもが、

 筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが 松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と

 松平は平和に強い考えがあったと思うのに 親の心子知らずと思っている」



は、到底、昭和天皇の御言葉ではないということだった。



この辺のことを裏付ける大原康男教授の分かり易い寄稿があるので、参考までに掲載しておく。



――――――――


戦犯合祀は官民一体作業

・・・
 戦後はそれがどうなったか。陸海軍省は廃止され、靖国神社は民間の一宗教法人となり、しかも占領中はGHQ は靖国神社に対して大変厳しい目を向けていました。ところが、占領が終わると同時に、遺族会や生き残った戦友たちから、国の為に亡くなった戦没者を早急に靖国神社にお祀りすべきだという議論が沸き起こった。 しかし、彪大な数になる支那事変や大東亜戦争の戦没者を選考するなど、民間の宗教法人となった靖国神社には到底不可能なことです。それで、陸海軍省の後身である第1、第2復員省に始り、そこから復員業務と遺族の援護業務を引き継いだ厚生省が、この問題を担当することになったわけです。


 厚生省は昭和31年、「靖国神社合祀事務に関する協力について」という通達を出して、都道府県が御祭神の選考を行うこととなった。そして、厚生省と都道府県が選考した御祭神を「御祭神名票」というカードに記入して靖国神社に送り、それに基づいて、靖国神社は御祭神を合祀する。戦後は、こういう一種の「官民一体の共同作業」によって、靖国神社の合祀がなされてきたのです。


 もう一つの問題は、支那事変から大東亜戦争にかけては、日本は歴史上はじめて総力戦を経験したわけですから、以前のような選考基準では範囲が狭い。それで、御祭神の範囲を広げざるを得なくなってくる。しかも、選考の基準にはきちんとした法的根拠がなければならない。そこで、「戦傷病者戦没者遺族等援護法」と「恩給法」のいずれかに該当する、という基準を立てた。

 その「援護法」と「恩給法」自体の適用範囲が広がります。戦前のように軍人・軍属やそれに類する者だけではなく、例えば徴用された船舶の乗組員であるとか、空襲警報下に避難誘導や防火に努めた警防団員だとか、あるいは国民義勇隊の隊員なども含められるようになった。  そうしたなかで、いわゆる戦争犯罪人として処刑されたり、獄死されたり、あるいは裁判中に自決された方々も、「援護法」と「恩給法」の対象のなかに入れるべきだという議論が高まり、昭和28年8月に成立したこの2つの法律の改正によって、戦犯の遺族にも戦没者遺族と同様に遺族年金、弔意金、扶助料などが支給されるようになります。しかも、講和条約発効後も収監されていた有期刑や無期刑の方々は、昭和33年には全員が釈放され、そうした元受刑者本人に対する恩給も支給されるようになった。

 そもそも戦犯なるものは、日本から見れば、日本が主権を喪失していた時代に日本国家の意志とは無関係に連合国側が一方的に裁いたにすぎない。戦後の日本政府は、この点をきちんと踏まえていて、いわゆる戦犯に対して、国内法上の犯罪人という認定は一切していない。

 例えば、恩給法を見ますと、恩給権の消滅事由のなかには、「本人の死亡」と並んで「懲役乃至は禁固に処せられた者」という事項もあるのですが、先に述べたように、戦犯は恩給権を失ったわけではない。また、「懲役乃至は禁固に処せられた者」は、選挙権や被選挙権も当然停止されますが、いわゆる戦犯は現実には巣鴨プリズンの中で選挙権を行使していました。つまり、日本政府は戦犯を占領中から犯罪者としては見ていないのです。また、刑死した人々も同様で、その死はあくまでも「法務死」と呼ばれています。

 このような経緯があって、BC級戦犯として亡くなった方の「祭神名票」が昭和34年から靖国神社に送られ、その年に最初の合祀がなされる。A級戦犯については、昭和41年2月に「祭神名票」が神社に送られました。刑死した方7名と、未決で巣鴨収監中に亡くなった方と受刑中に亡くなった方7名の計14名です。ただ、その頃ちょうど、靖国神社の国家護持の問題が盛んに議論されていた頃であったことも配慮してでしょう、すぐには合祀されなかった。ようやく昭和46年になって崇敬者総代会で合祀が了承されますが、合祀が承認されても直ちには合祀せず、結局、昭和53年の秋季例大祭の前日の霊璽奉安祭で合祀されるということになり、翌54年4月19日、そのことが新聞報道によって明らかになり、国民の知るところとなった。


  こうした一連の経緯を考えますと、戦犯の合祀が歴代政府の厚生行政の一環として行われたことは明らかです。しかも、国民の代表である国会が行った恩給法や援護法の改正に従って、その対象とされた戦犯の方々を、厚生省と都道府県が協力して「祭神名票」として靖国神社に送り、靖国神社はそれによって合祀した。
・・・

「明日への選択」平成11年7月号、大原康男 國學院大學教授 より抜粋。

南京虐殺は嘘50・蘇る捏造by朝日新聞2・「南京大虐殺」は本多勝一たち朝日新聞が1970年代に作った

当時の中国は文化大革命の真っただ中、「日本は世界征服の陰謀の第一歩として中国を侵略した」というトンデモない内容の反日偽書『田中上秦文』を『毛沢東語録』とともに大量頒布し、ありとあらゆる「日本軍の蛮行」を捏造しまくり、「その悪鬼・日本から我々を救って下さったのは毛沢東主席だ」という大宣伝を行なって国内をまとめていた。その一環として「南京大虐殺」も使われていたのだが、朝日はそんなプロパガンダを直輸入し、検証もせずに大宣伝したのだ。そして反戦・反権力ブームの当時の世相がそれを後押しし、他のマスコミも追随した。それが、戦後消えていた「南京虐殺」が突然大々的にマスコミに登場した理由なのである。



この常軌を逸した朝日報道の中でも、最大の決定打となったのは昭和46(1971)年8月から連載された『中国の旅』だった。執筆者は本多勝一記者。これは本多記者が中国に出かけ、中国共産党政府が用意した「証人」に聞いた話を「裏付け・検証ナシ」でそのまま掲載したものである。「裏付けナシ」という、新聞記事の常識を無視した企画が新聞本紙、週刊朝日、朝日ジャーナル、アサヒグラフなど、あらゆる媒体を使って大々的に展開、翌年には単行本化され、ベストセラーになった。


文革真っただ中、今で言えば北朝鮮政府が選んだ人に北朝鮮の国情と金正日の人柄を聞いてくるようなもので、現在冷静に読み返してみると、もう笑うしかない代物になってしまっている。なにしろ出る人出る人、口々に「生きたまま顔の皮を剥いだ」だの「肝を取り出して煮て食った」だの、中国・漢民族の伝統文化の発想にしかない残虐行為を「日本兵がやった」とする証言を延々続け、最後に「今は毛沢東主席のおかげでしあわせです」と判で押したように語るのである。当の中国政府が、文革を権力闘争による同胞2000万大虐殺を伴うとてつもない犯罪行為、と認めている現在も、なぜかこの本は出版されている。

この連載の中で「南京」も大々的にとりあげられ、中国の証言そのままに「犠牲者30万人」が改めて大宣伝された。実は東京裁判の時には南京の事件は「南京暴虐事件」などの名称で呼ばれていた。「南京大虐殺」の名が一般的になったのは『中国の旅』から後のことである。
言い様によっては「南京大虐殺」は朝日新聞が作った、とも言えるのである。

『中国の旅』キャンペーンには「事実と違う」という声も多く寄せられていた。しかし朝日はその反論をすべて無視し、中国のプロパガンダである反日宣伝の物量作戦を続行した。
あくまでもこれに反論しようとする者は、今より遙かに「日本の良心」としての権威があった朝日新聞の正義の前に「日中友好の敵」「軍国主義者」のレッテルを貼られ、沈黙させられた。
「被害者の証言を疑う者は悪魔」。「従軍慰安婦」の時にも繰り返された構図である。

『ゴーマニズム宣言』








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原爆投下の裏面史検証・葬り去られた米国高官の対日宣言 【正論】鳥居民

【正論】評論家・鳥居民

継続すべき原爆投下の裏面史検証

2005/08/05, 産経新聞 

 ■宿題として残る戦後史への影響


 ≪「米兵百万人救う」の口実≫

 広島、長崎に原爆が投下されてから六十年がたつ。

 アメリカの政治家は、日本に原爆を落としたのは百万人のアメリカ兵の命を救うためだったと今日なおも語り、アメリカの学校ではそのように教えてきている。

 原爆投下の本当の理由を承知しているアメリカ人は当然ながらいる。トルーマン大統領が原爆を日本の都市に是が非でも投下したかったのは、四年の歳月と二十億ドルの巨費をかけた究極兵器の力を議会と国民に教え、戦後の核計画への支持を獲得し、スターリンに対しては、その絶対的な威力を誇示し、脅しをかけるためだった。

 だが、その二つの目的はニューメキシコの砂漠の公開実験で十分に達することができたのであり、広島、長崎の市民とその二世までを殺す必要などあるはずもなかった。

 多くのアメリカ人が「百万人」のウソを言い続けるのは、人間誰もが持つ道徳色の濃い自己愛に他ならない。

 私が残念に思っているのは、日本での論議だ。

 「百万人」の話をする日本人は、さすがに今はいない。だが、鈴木貫太郎内閣がポツダム宣言を「黙殺」したがために、原爆が投下されたのだと語る歴史研究者は今もなお存在する。
 一九四五年の五月末から六月、七月に戻ってみよう。

 陸軍長官スティムソンと国務次官グルーは、日本に降伏を勧告するときだと大統領トルーマンに何回も説き、日本側が受け入れることができるように、天皇の地位保全を約束すべきだと主張した。それでも日本が降伏を拒否するのであれば、そのときこそ原爆の投下を警告すべきだと説いたのである。

 海軍長官フォレスタル、陸軍参謀総長マーシャル、海軍軍令部総長キングもまた、警告なしに日本の都市に原爆を投下することには反対の立場であった。


 ≪日本を翻弄した降伏勧告≫

 ところが、トルーマンと彼のただ一人の協力者である国務長官バーンズは、日本に降伏を勧告するスティムソンの草案から天皇の地位保全を認める条項を削ってしまう。

 また、スティムソンの草案では共同提案国にソ連の名前が入っていたが、トルーマンとバーンズは、日本がソ連に和平の仲介を依頼していることを日本外務省とモスクワの日本大使館との間の往復電報から知り、ソ連の名前を削り、重慶の国民党政府に差し替えたのである。日本にソ連への期待を持ち続けさせ、降伏勧告を無視させようとしてのことだった。

 さらに、その降伏勧告をホワイトハウス、国務省からではなく、宣伝機関の戦時情報局から発表させた。日本側をして宣伝文書と思わせるようにしたのである。

 さて、トルーマンとバーンズは、広島と長崎での"原爆実験"に成功した後、直ちにスティムソンとグルーの計画に立ち戻り、天皇の地位保全を日本側に告げることにした。バーンズが手の込んだごまかしをしたことから、日本の歴史研究者はそれが事実上のスティムソン草案の復活であることに気づくことなく、その解明をも忘れている。

 そのすべてを明らかにしようとするなら、ルーズベルト大統領時代の一九四四年に立ち戻らなければならない。

 ルーズベルトは日本との戦争が長引けば、中国の内戦が不可避になることを懸念した。天皇の地位の保証を主張するグルーを起用したのも、ヨーロッパの戦いが終わったすぐ後に、日本を降伏させようと考えてのことだった。

 だが、ルーズベルトは一九四五年四月に急死する。後継者トルーマンはバーンズの協力を得て、先に記したとおり、原爆を日本の都市に投下してみせ、ソ連を脅すことが何よりも先だと考えた。


 ≪潰えたトルーマンの"夢"≫

 ところで、広島と長崎を二発の原爆で壊滅させても、中国に駐留する百万の日本軍を降伏させる上で何の威嚇にもならないことをトルーマンとバーンズは初めから承知していた。だからこそ、スティムソン草案に戻り、天皇の地位の保証をしたのである。

 しかしそうであるならば、ソ連の行動を原爆によって抑止することなど、とてもできないとトルーマンは考えなければいけないはずであった。果たして、その後のベルリン封鎖、中国内戦、朝鮮戦争は原爆の威嚇によっては阻止できず、彼の夢ははかなく崩れ落ちた。

 最初に述べたとおり、原爆が二つの都市に投下されて六十年がたつ。だがトルーマンが試みたこと、そしてその失敗は、この先なお検証を続けなければならない宿題なのである。(とりい たみ)


Ω Ω Ω Ω Ω Ω


【正論】評論家・鳥居民

葬り去られた米国高官の対日宣言

2006/08/09, 産経新聞

 ■長崎への「原爆投下の日」に思う


≪歴史研究家の誤った認識≫

 今日は2発目の原爆が長崎に落とされた日だ。

 まず、私の次の推論を読んでいただきたい。

 もしアメリカが原爆攻撃をする意図がなかったのなら、昭和20年6月末から7月中に日本は戦争の継続を断念し、降伏していたであろう。

 首をかしげる読者も多いだろう。なにをばかなことを言っているのだと鼻で嗤(わら)う歴史研究者もいよう。

 だが、そのような歴史研究者は誤っている。

 例えばある研究者は次のように述べている。

 「B29空襲による被害だけでは、天皇は『かくなる上はやむを得ぬ』といわなかったであろう」

 「鈴木貫太郎首相も、通常爆撃だけでは降伏にもっていけなかったと証言している」

 妥当な判断だと思う人がいるかもしれないが、これは間違っている。

 アメリカ政府が日本に原爆を投下する意図がなかったのであれば、日本が受諾できる条件をはっきり明記して、日本に降伏を呼びかけてきたからである。

 鈴木貫太郎はこれを受諾すべきだと説き、天皇はうなずかれたことであろう。この説明だけでは誰も納得すまい。別の話をしなければならない。


≪米の狙いは中国内戦阻止≫

 歴史研究者がまったく気づいていない問題がある。1944年(昭和19年)5月、ルーズベルトは日本に対する無条件降伏の要求をそっと取り下げた。対日強硬政策を10年にわたって取り続け、日本をアメリカとの戦争に引き入れた対日本・中国外交の責任者、ホーンベックを解任し、前駐日大使のグルーを後任とした。

 ルーズベルトはアメリカがこの先、無条件降伏を無理押ししないことを日本側にはっきりわからせようとした。そこでグルーは、日本にとって皇室は不可欠な存在だと演説し、日本の戦争勢力は陸軍の過激派だと説いた著書を出版し、その要点はアメリカの大多数の新聞に掲載された。そして、その半年あとにグルーは国務長官代行の地位に就いた。

 日本の政府と軍は、アメリカのその動きは、アメリカ兵の犠牲を少なくしようと戦いを早く終わりにしたいと願ってのことだと理解した。

 そうではなかった。ルーズベルトはその理由を明かさなかったが、中国の内戦を予防するためには、日本との戦争を1日でも早く終了させねばならないと考えたのである。


≪奏上されていた早期終結論≫

 もうひとつ、歴史研究者が無視してきた重要な出来事がある。

 天皇は昭和20年6月上旬に内大臣、木戸幸一から東大法学部教授の南原繁と高木八尺(やさか)の次のような戦争の早期終結の提言を耳にして、釈然とするところがあったのである。

 アメリカ政府は日本との戦いを早く終わりにしたいと望んでいるが、戦いが長引き、本土での戦いが続くことになれば、アメリカ政府内部の日本に対して穏健な講和を望む勢力は力を失い、強硬な主張を唱える勢力に取って代わろう。

 皇室は国民と直結することによって、日本復興の源泉とならなければならないが、戦争を続ければ、皇室の安泰、国体の護持といった目的も失われてしまう。こういう主張だった。

 紆余曲折はあったが、天皇はこの提言によって行動した。

 その紆余曲折について述べなければならない。

 1945年4月にルーズベルトは急死し、トルーマンが大統領となった。グルーは5月末と6月上旬、大統領に対日宣言を今こそ公表するときだと説いたが、大統領は2度とも逃げて回った。

 グルーはトルーマンの考えが見当つかなかった。日本政府はアメリカ政府の意図が見当つかず、ソ連に和平の仲介を求めることになった。

 さて、1945年7月末、グルーの対日宣言案から天皇制度保全の条項を削除した宣言をトルーマンは発表した。その16日あとに、その削除した条項を日本側に示した。その条項をそのまま復活したのではない。細工をほどこした。

 なんだ、日本に2発の原爆を落とす実験を終えるまで、日本を降伏させないために天皇制度保全の条項を保留しただけだと、のちのち批判されるのを予防するためだった。

 原爆の投下がなかったら戦争は続き、原爆の犠牲者以上の死者が出たであろうといった主張は、原爆の「公開」を日本の都市で行うよう命じた人物を救うためのお話である。








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日本に降伏を許さず、何が何でも市民の上に原爆投下『アメリカの鏡・日本』ヘレン・ミアーズ著


写真は、『アメリカの鏡・日本』ヘレン・ミアーズ著




 日本政府は少なくとも1945年5月に降伏の打診をしているが、この打診は米政府によって公式に無視、あるいは拒否された。事実、1944年の早い段階から、日本政府の内部では完全敗北とみなしうる条件の受け入れが真剣に検討されていたのだ。

 米戦略爆撃調査は1946年7月、トルーマン大統領に「日本の戦争終結努力」と題する報告を提出した。日本指導部との面接調査を基にしたこの報告は、単なる流言とされていた降伏の打診が、かなり早い時点からしばしば行われていたことを確認している。

 同報告によれば、1944年2月には日本指導部の多くが、この戦争には勝てないと判断し、妥協による和平努力を主張している。しかも、この「妥協による和平」は日本の戦前の地位を引き上げようというものではなかった。寧ろ、高木惣吉海軍少将は、日本は朝鮮と台湾の放棄を前提にして交渉すべきであると主張していたのだ。

 1944年7月には、和平派は東条内閣を倒すところまで力を強めていた。そして後継内閣は最高戦争指導会議を設置した。その主な仕事は戦争からの離脱だった。



 1945年2月には早くも、和平打診に関する情報がアメリカの新聞で報道されている。当時、この提案は公式に無視、ないしは否定されたが、ようやく、その事実を裏付ける証拠が出てきた。3月には日本政府が和平交渉の可能性を模索していたことは事実だ。交渉は中国を仲介者とし、1931年以前の国境線を基礎にするものだった。そして、同年5月までに駐ソ日本大使は「結果が如何なるものであれ、『戦前の条件より後退したものであっても』」、それを前提に可能な和平提案を協議するよう訓令を受けている。これほど早い時期に日本政府内部で降伏を唱える人々が影響力を持ち始めていたことを、米戦略爆撃調査報告は確認しているのだ。同報告は「天皇、枢密院議長、首相、外相、海相は1945年5月に、連合国の条件による敗戦を受け入れることになっても、戦争は終結させなければならないとの結論に達していた」

 いまや政府内部の指導権を握った和平派は、こうした大きな支持を得て、この月のうちに具体的行動を起こした。既に見たように、モスクワ駐在日本大使は交渉打診の訓令を受けていた。そして近衛公を交渉のためモスクワに送ることも計画された。できれば無条件降伏より緩い条件を期待してはいたが、いづれにしても和平のための交渉だった。


 1945年5月9日付けのワシントン・ポストは、日本の降伏条件について伝えたシカゴ・サンのフレデリック・クー記者の記事を転載している。それは、日本軍部の全面降伏、中国から奪った領土と戦争中に占領した全領土の放棄を求めたカイロ宣言を、本土は占領しないという条件で受け入れるというものだった。同記者が伝えた和平提案は、米戦略爆撃調査が報告する日本政府の協議内容と一致している。クー記者はまた、米国務省が4月にこの和平提案を受け取ったと伝えたが、これに対して国務省は公式提案は何も受け取っていないと答えていた。

 5月12日、ハルゼー提督が「太平洋の某所」で従軍牧師グループに語った話から判断すると、戦争状況を把握する立場の人は日本の和平工作を予測していたようだ。同提督は日本が間もなくかなり積極的に和平打診をしてくるだろうが、「日本を2度と戦争できなくなるまで叩き潰して、はじめて戦争目的は成就する。我々はそこまで徹底しなければならない」と語っている。

 スチムソン元陸軍長官は1947年2月のパーハーズ・マガジンに「原子爆弾使用の決定」を正当化する記事を寄稿した。即ち、1945年7月、日本がソ連を「交渉による和平」の仲介者とする「試案」を同国に提示したことは事実だが、この「曖昧な提案」は「日本が主要な占領地域をそのまま保持する」ことを考えているもので、受け入れることは出来なかった、というのだ。しかし、スチムソンはこの説明を裏づける証拠資料を出していないし、「占領地域」が具体的にどこをさしているかも語っていない。
興味深いのは、占領後日本から送られてきた公式報告がスチムソンの言明より、クー記者の「情報」を裏づけしていることだ。


 ソ連の仲介を求める日本の要請に対して、ソ連は明確な回答を避けていたが、これはアメリカの承諾があったようだ。日本の代表団は受け入れられなかった。7月、連合国首脳はポツダムに集まり、日本の運命を決めることになるが、その際近衛公が同地に赴いて和平案を提出することも許されなかった。

 殆どのアメリカ人は日本が軍事的に弱いことを知らなかった。前線からの報道は、少なくとも6ヶ月間に亙って、日本の戦争機関が急激に失速していることを窺わせる事実を送り続けていた。しかし、私たちの宣伝担当者は、最後の最後まで「百年戦争」とか「滅びるまで戦う覚悟の狂信的国民」という言葉を使っていた。

(ここまでP143~144)

(中略)



 米戦略爆撃調査の報告によると、日本政府は直ちに通告内容の検討に入った。政策決定グループ「6首脳」(訳注=最高戦争指導会議。首相、外相、陸相、海相、陸軍参謀総長、海軍軍令部長で構成)の中で降伏に反対するものは一人もいなかった。指導部の中で3人(陸軍参謀総長、海軍軍令部長、陸軍大臣)だけが、内容が「あまりにも不名誉」であるという理由から、交渉抜きの受諾に難色を示した。彼らは、連合国側が領土条件を緩めてくれることを期待したからではなく、天皇の地位が不明確のまま残されていること、また占領を回避し、武装解除と戦争犯罪裁判を日本政府の責任で行うことを求めていたのである。

 ポツダム宣言は、日本国民を決起させ降伏を早めるための解放戦略として受け止められていた。対日プロパガンダ、特にキャプテン・ザカリアスが制作、放送していたラジオ番組と同じようなものだ。しかし、日本での効果は全く逆だった。降伏を決定すべき政策立案者の立場からすれば、宣言は和平勢力より、寧ろ「徹底抗戦」派の力を強める効果しかもたなかった。
ポツダム宣言の内容は、よくいえば「厳しく、贖罪的」、悪くいえば、経済条項は極めて漠然としていたし、特定されない戦争犯罪人の追及があまりに広範で曖昧だったから、それが指導部と全国民に対してもつ意味を理解できるものには、ただちには受け入れ難いものだったのも当然である。しかし、その過酷な条件にも拘らず、6首脳のうち3人は即時受諾に賛成していたのだ。

 しかし、私たちは和平支持派に反対勢力を説得する時間的余裕を与えなかった。私たちはたった11日間待っただけで、いきなり1発の原子爆弾を、そしてさらにもう1発を、戦艦の上でもない、軍隊の上でもない、軍事施設の上でもない、頑迷な指導部の上でもない、2つの都市の約20万の市民の上に投下した。



 スチムソンは原子爆弾の投下を正当化して、「日本の独裁体制に確実なショック」を与え「我々が望んでいたように、和平支持勢力を強化し、軍部の力を弱める」ためには「優れて適切な武器」だったと説明する。しかし、米戦略爆撃調査の公式報告は、そのような「ショック」は必要なかったというのだ。

 同報告は、原子爆弾が投下されなくても、或いはソ連が参戦しなくても、また上陸作戦が計画ないし検討されなくても、日本は「あらゆる可能性を考えに入れても1945年11月1日までに」無条件降伏をしていただろうという意見である。

(P147~148)

『アメリカの鏡・日本』ヘレン・ミアーズ著








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「原爆投下、市民殺りく(懲罰)が目的」スタンフォード大のバートン・バーンスタイン教授が極秘文書で確認

原爆投下 「日本に懲罰」が目的 米の歴史学者が論文を発表
1994/12/24, 産経新聞

 【ニューヨーク22日=共同】米国の有力外交専門誌「フォーリン・アフェアーズ」は来年一月九日発行の最新号で、太平洋戦争末期の広島、長崎への原爆投下は日本の降伏を早めたり、米軍兵士の犠牲を回避するのが目的で決断されたわけではない、との内容の米歴史学者の論文を掲載する。



 一九四五年八月の原爆投下をめぐって米国では、戦争終結を早め、日本本土上陸作戦を無用にすることで米軍兵士五十万人の生命を救うために決断された、などと正当化する議論が有力だが、論文はこうした米国の一般的な見方の修正を迫っている。

 執筆したのはカリフォルニア州スタンフォード大学のバートン・バーンスタイン教授。当時の政策担当者のメモや日記、また秘密解除された公文書などの資料に基づいて当時の政策判断を検証している。

 それによると、戦争末期の四五年、日本が降伏しなければ米軍は十一月一日に七十六万七千人の部隊による九州上陸作戦の実行を計画。その際には最大二万五千人の米側戦死者を予測していた。続いて翌四六年三月一日に計画していた東京正面の上陸作戦では一万五千人から二万一千人の戦死者を予測していた。

 バーンスタイン教授は、上陸作戦による五十万人の戦死者予測などは存在せず、当時の米国指導者はより大きな犠牲を避ける目的で原爆投下を決断したわけではない、と主張。また最大で計四万六千人と予測された米軍の戦死者発生を回避するためでもなかったとして、日本に懲罰を加えることが原爆投下の本来の目的の一つだった、と説明している。


 また、原爆開発のマンハッタン秘密計画は約二十億ドルの資金を投じて推進されたため、ルーズベルト、トルーマン両大統領は政治的にもその成果を示す必要があり、民間人に大量の犠牲者が出ることが分かっていながら原爆投下の決断を下した、としている。

 さらに、当時の米政府当局者はだれも原爆一発ないし二発を投下すれば戦争終結が早まるとは期待しておらず、むしろソ連の参戦や対日降伏条件の緩和が日本の降伏を早めることになるとみなされていたことを紹介している。


Ω Ω Ω Ω Ω Ω




原爆投下、市民殺りくが目的
1983年8月6日、朝日新聞

米学者、極秘文書で確認

原子爆弾が広島に投下されてから6日で38年。これについて米最高首脳はこれまで「軍事目的に限定して使った」(トルーマン大統領回顧録)としてきたが、実は「日本への原爆投下の目的は一般市民を大量殺りくすることにあった」とスタンフォード大の米歴史学者が極秘文書で確認、近く出版する本で発表する。また広島、長崎に「米人捕虜がいる」と英国情報部などが警告したのにもかかわらず、米政府はこれを無視したという。
(パロアルト<米カリフォルニア州>菊地特派員)


スタンフォード大歴史学部のバートン・バーンスタイン教授は、原子爆弾が日本に投下されたとき、まだ小学生で、辺りの人々が「これで戦争が終わった」と喜んでいるのを記憶している。しかし、スタンフォード大で歴史学を専攻するうち、なぜ人々が原爆投下を単純に受け取っているか、について疑問を持ったという。あのころドイツが降伏し、日本だけが世界を相手に戦っていたのになぜ原爆を使わなければいけなかったか、についてである。この疑問を解明するため米軍事外交文書を研究するうち、“歴史の偽り”を発見したという。

同教授が入手した極秘文書によると、1945年7月31日、原爆投下についてスチムソン米陸軍長官を囲んで最高会議が開かれた。その際ノーベル賞学者のE・ロレンス博士(サイクロトロンの発明者)は「科学者としては原爆を直接日本に投下したくない。まず米国の砂漠などで世界の代表者を呼び、公開の場でその威力を見せるべきだ」と主張した。しかし、他のメンバーたちは「もし原爆が不発だったら世界の笑いものになる。ともかく日本へ投下しよう」と主張して決定を見たという。

投下地点の選定については、「軍事施設のみという科学者の主張に米軍側が強く反対し、結局、民間人を大量に殺りくすることが決定された」としている。

人類初の原爆は“効果半径”約1.8キロ。同教授の入手した米空軍史(部外秘)によれば、「その火の玉を広島の住宅密集地、商業地区に投下せよ」との命令が出ている。投下時間は午前8時15分。「これは工場労働者が仕事を始め、市民の子どもたちが戸外に遊びに出る時間帯。米軍はまさにそこを狙ったのだ」と同教授。

しかしトルーマン大統領はその回顧録で「原爆は非戦闘員の婦人、子どもを避けて、軍事基地だけに限定して使った」と書いている。

この広島原爆で護送中だった米人捕虜23人が死亡した。この事実は1945年10月9日、国際赤十字が確認したが、米当局は公表を避けているという。同教授によれば、それは、原爆投下の直前、米国は英情報部から「広島に米人捕虜がいる」と通告を受けていたがこれを無視したからだという。

米戦略空軍司令部の極秘電報(45年7月30日付)によると同司令部は長崎には米人捕虜収容所があることを確認、ワシントンに打電した。しかし投下は強行された。結局、長崎の原爆は目標を少しずれたため、約1400人の米人捕虜は助かった。

同教授はトルーマン大統領の内政、外交政策について研究を続けるうちに、あるときふと、「広島で米兵捕虜も爆死しているのではないか?」という疑問を抱き、政府や軍に当たったが答えは得られなかったという。

しかしその後、ワシントンの国立公文書館で「極秘」扱いを解かれた兵士らの「軍歴書」の中に、「ヒロシマで戦死」との記述を見つけ、米兵捕虜被爆死の事実を確認した。

とはいえ、軍歴書は、乗機を撃墜され捕虜になって広島で死んだ、としているだけで、それが原爆によるものであることにはまったく触れていない。その遺族らも、被爆死どころか広島で死んだことすらも知らされておらず、日本上空で撃墜され戦死、あるいは戦傷死したものと信じていた。

政府が秘密にしていた理由について同教授は「米国民の大半が支持した原爆投下で米兵が殺されていたとなれば、世論は批判にかわり、第2次大戦直後の冷戦激化の中での核戦略に重要な影響をもたらす、と懸念したからではないか」と語り、「一般市民はもちろん、味方の軍人まで犠牲にしても平気な“戦争の狂気”を告発したい」といっている。

バーンスタイン教授はこれらの新発見を基に近く「核軍縮への道」(仮題)という著書を出版するが、「米外交文書の公開は軍事機密に関しては特に厳しい。1978年に資料要求したものが最近やっと数点入手できたほどだ」と語っている。

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(注)原爆の投下目標として検討された都市は東京など16都市があり、最後に広島、小倉、長崎の3目標に絞られた。8月9日の第1目標は小倉だったが、天候その他の条件が悪いときは長崎に投下すると決まっていた。

原爆の効果を視るため、出来るだけ被害を受けていない都市を選んだと聞いたことがあります。
被害の少ない都市といえば、京都も原爆投下の目標に入っていました。









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