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また騙されるのか?! 「核放棄具体策 北、協議応じる意向」 「エネルギー支援、米朝・日朝の国交正常化のための作業部会の設置…」

核放棄具体策 北、協議応じる意向
2006/12/15, 産経新聞

 【ワシントン=有元隆志】北朝鮮の核開発をめぐる6カ国協議の米首席代表を務めるヒル国務次官補(東アジア・太平洋担当)は13日、国務省で記者会見し、18日から北京で再開される協議を前にした北朝鮮との折衝で、北朝鮮側が核開発放棄に向けた具体策の協議に応じる用意があると示唆したことを明らかにした。また、協議と並行して、北朝鮮への金融制裁問題に関する米朝2カ国協議が行われる見通しを示した。

 ヒル次官補は、10月の北朝鮮の核実験後、初めてとなる今回の協議について、北朝鮮の核兵器および核計画の放棄をうたった昨年9月の共同声明を完全に実行するために「具体的な進展が必要」と強調した。

 複数の協議筋によると、米側は北朝鮮に対し、

(1)核実験場の閉鎖
(2)寧辺にある核施設の停止
(3)国際原子力機関(IAEA)査察の受け入れ
(4)保有する核の公表-を要求。

議長国・中国は今回の協議では、寧辺の核施設の停止とIAEAの査察に絞るべきとの考えを示している。

 同筋は、北朝鮮が核施設の停止と査察を受け入れた場合、エネルギー支援、米朝・日朝の国交正常化のための作業部会の設置も合意される見通しとしている。

 ヒル次官補によると、金融問題の協議は財務省を中心に行い、北朝鮮の違法金融活動に関与したとしてマカオのバンコ・デルタ・アジア銀行を「主要懸念先」に指定した理由などを改めて説明する。同次官補は問題解決のためには「北朝鮮が何と言うかにかかっている」と述べ、北朝鮮が偽ドル札製造などの違法活動を中止すべきだとの考えを示した。 

 同次官補は協議出席を前に訪日する。


―――――――



>同筋は、北朝鮮が核施設の停止と査察を受け入れた場合、エネルギー支援、米朝・日朝の国交正常化のための作業部会の設置も合意される見通しとしている。


ハァ?
また騙されるのか?!

北朝鮮は核開発を始めたり核実験を行なったりする度にエネルギー支援を得られてうらやましい。
やはり、核開発や核実験をすると得をするんだね。
日本も北朝鮮を見習うべきだね。


まー、日本は拉致問題が解決しない限り、援助も国交正常化もしないはずだが、アメリカが同じ過ちを繰り返しているうちに北朝鮮の核開発・ミサイル開発は徐々に進歩していく。
いい加減にしろ!

冨田メモの徹底検証6:4月28日に何があったか?富田メモの「=」の部分に注目!最重要部分は、徳川義寛の発言だった!?

■冨田メモの徹底検証
http://homepage2.nifty.com/khosokawa/opinion08k.htm#_第6章_4月28日に何があったか



第6章 4月28日に何があったか

(5)テキスト分析が必要

(略)

  昭和63年4月28日の富田メモは、3枚目に「Pressとの会見」と題している。3枚目の上半分は、次のような内容である。
 「[1]昨年は
  (1) 高松薨去間もないときで心も重かった
  (2) メモで返答したのでごつごつしていたと思う
  (3) 4.29に吐瀉したが その前でやはり体調が充分でなかった
  それで長官に今年はの記者  印象があったのであろう
   =(2)については記者も申しておりました」

 これは、昭和62年4月の天皇記者会見を振り返って昭和天皇がお話になったことを、富田が直接お聞きして書き留めたものと考えられる。徳川自身の体験ではあり得ない。彼には関連する体験がない。ここに「=」という記号が出てくる。仮に日経の説明に従って、「=」は富田自身の意見を示す記号だとしよう。富田は徳川を通じてではなく、直接陛下から拝聴したのだろう。職務記録を見れば確認できるだろうが、徳川が同席していた可能性はある。同席していれば、昭和63年4月28日の記者会見では、上記の趣旨のことを徳川が語った可能性もある。

 さて、この部分で富田は、「=」で始まる文では「申しておりました」と謙譲語を使っている。3枚目の下半分も、内容から見て天皇のお言葉を書き留めたものと思う(ここでは省略)。
 ところが、4枚目の上半分、奥野・藤尾のところでは、「=奥野は~と思うが ~と思う ~とも思う」と普通の言葉遣いである。
 「前にあったね どうしたのだろう 中曽根の靖国参拝もあったか 藤尾(文相)の発言。
 =奧野は藤尾と違うと思うが バランス感覚のことと思う 単純な復古ではないとも。」

 
 私は、ここに注目する。この会話の相手が、3枚目で「申しておりました」と書いたのと同じ人物であれば、この4枚目の「=」もまた「思いますが~ 思います」と書くべきだろう。富田は、謙譲語をここでは使っていない。それゆえ、3枚目の「=」は天皇に対するご返事、4枚目の「=」は同等の者の発言へのコメントと、私は区別できると思う。同等の者とは、だれか。徳川元侍従長と考えられる。



(6)欄外の2行に鍵がある

 しかも、もう一点、注目すべきことがある。4枚目の下段に、欄外に縦で「・余り閣僚も知らず ・そうですがが多い」と書かれていることである。富田メモについて、半藤一利氏、秦郁彦氏、保坂正康氏の三氏が『文藝春秋』9月号で鼎談をしたが、そのなかでも、この欄外の2行は不明のままとなっている。半藤氏は「うーん、ここはよくわかりません」と言っている。私は、全体に関わる鍵がここにはあると思う。



昭和63年4月28日には、昭和天皇の記者会見は行なわれていない。だから、「・余り閣僚も知らず ・そうですがが多い」は、この日の天皇と記者のやりとりに関するものではない。誰かと記者のやりとりについて、書いたものである。この日、富田は夜、記者の取材を受けている。また、徳川元侍従長の記者会見があったとも伝えられる。4月28日の記者会見は1回なのか2回なのか、参加者、記者による記録等を調査することが喫緊の要事となっている。



 可能性の第一は、場面は記者会見。発言者は徳川。富田はそこに同席。富田は徳川と記者のやりとりを聴き、記者について「余り閣僚も知らず」「そうですがが多い」などと、さめた感じで欄外に感想を書いているという状況である。
 4月28日の出来事について調査が進まないと判断できないが、富田メモの欄外の縦書きは重要なのである。その2行を解読できないと、いわゆる「A級戦犯」の合祀に関する文言が、昭和天皇のお言葉だとは、断定できない。発言者が徳川元侍従長という可能性がある。



(中略)


 私は現在のところ、第二の可能性は、ほとんどありえないと思う。第一の可能性つまり、場面は記者会見。発言者は徳川。富田はそこに同席。富田は徳川と記者のやりとりを聴いていて、記者について「余り閣僚も知らず」「そうですがが多い」などと、さめた感じで欄外に感想を書いているという可能性が高いと思う。
 そして、この場合、富田のコメントと思われる第二番目の「=」の部分、つまり「奥野は~と思うが ~と思う ~とも思う」と普通の言葉遣いで書いた部分は、天皇に対するご返事ではなく、同等の立場にある徳川元侍従長の発言に対するコメントと私は考える。



以上の考察によって、富田メモの4枚目は、3枚目とは異なる場面での記録と考えられる。3枚目は、富田が記者会見の前に、午前中に昭和天皇からお言葉を伺って書き留めたものだろう。これに対し、4枚目は、そのメモを持って臨んだ記者会見の場で、書いたものではないか。
 3枚目は、[1] [2]と番号が振ってあるが、4枚目にはそういう番号を振っていないことも、時間・場所・状況が異なることを示唆しているかもしれない。
 3枚目の「=」の部分は、午後または夜の記者会見において、徳川が発言した内容について、富田が書いた。「奧野は藤尾と違うと思うが バランス感覚のことと思う 単純な復古ではないとも。」と自分の意見を記した。このように考えられる。ただ書いただけでなく、記者に対してそのように富田自身が発言したのかも知れない。

 では、富田メモの最重要の部分、つまり、いわゆる「A級戦犯」の合祀に関する文言は、誰の発言なのか。天皇ではなく、徳川の発言であり、それを記者会見の場で、富田が書き留めたものという可能性が高く浮かび上がってくる。

南京虐殺は嘘42 驚くべき出鱈目裁判2 トンデモ証言のオンパレード

【反対尋問】に耐えられない証言ばかり


中国政府は、中国国民党が戦後、多大の苦労をしてようやく集めた十一件の証言によって「十九万人が集団殺戮された」と主張している。

しかし、その計算の仕方は杜撰極まりない。どこそこでAという中国人が、日本軍が何万もの中国人を集団殺害しているのを目撃したというような《十一件》の証言の犠牲者数を単純に合計して十九万人という数字を主張しているに過ぎないのである。

しかも、この十九万に関して『資料選輯』は「集団殺戮に会い、死体を焼かれて痕跡をとどめなかった者は十九万以上に達」したと主張し、死体なき殺人事件だと言い張るのである。数名ならともかく、十九万人もの死体が跡形もなく消えたと言われて、誰が信じることができるだろうか。


実はこれら十一件の証言は、事件から八年も経った後に集められたものであり、反対尋問も受けていない。その内容も合理性を著しく欠く。

何故なら、これらの証言を信じれば、陥落直後の十二月十四日から十八日までのたった五日間に、一日平均三万八千人もの中国人が、約千六百人の日本軍歩兵第七連帯第一、第二大隊(その多くは治安維持や警備を担当していた)の手によって安全区及びその付近において殺害され、十九万もの死体はすべて石油などで焼かれて痕跡をとどめなかったことになるからである。


大量殺害施設として名高いナチスのアウシュヴィッツでさえ、殺害数は一日平均約七百十人であった。一日平均三万八千人も殺害するためには、アウシュヴィッツ並の施設が五十三箇所も必要となる。もちろんそんな施設はなかった。

では十一件の証言はどのようなものか。〈起訴状〉にその内の一件、「魯甦」の証言に基づいて次のように書かれている[九]。

日本軍は十二月十八日、南京城北の草鞋狭で捕虜と老若男女の避難民を含めた五万七千余人を一ヵ所に集めて、まず機関銃で掃射し、さらに生きている人を銃剣で刺殺し、その上にガソリンをまいて焼いた。おなじような大規模な虐殺は南京陥落後の一週間のうち数件おこなわれた。

東京裁判にも証言を提出した「魯甦」によると、日本軍は、近郊の村に包囲・拘禁していた五万七千四百十八名もの難民と兵士を十二月十六日夜、ワイヤーロープで二人ずつ括り、四列に並べて下関・草鞋峡まで追い立て、機関銃で掃射しつくした後、さらに銃剣でやたらめったら突き刺し、最後に石油をかけ、火をつけて焼き、残った人骨をことごとく揚子江の中に投げ入れた。この一部始終を、南京城内の「市街戦」に際して「砲弾」を受け「腿」に負傷し上元門大芽洞に避難した証言者が「目の前で」目撃したという。



この〈証人〉が法廷に出廷していたならば当然、次のような【反対尋問】を受けただろう。


一、証人は闇夜の中でいったいどうやって五万七千四百十八名もの犠牲者を一桁まで正確に数えることができたのか。

二、日本兵が要所を固めている城内から城外の下関までの道を、証人はどのようにして通って、殺害現場を目撃できる場所に行けたのか。

三、六万人近い中国人をワイヤーロープで縛り上げるのに日本兵は何人くらいおり、どれくらいの時間を要したか。中国人はおとなしく縛られたのか。

四、六万人もの中国人を殺害現場まで押送するのに、警護の日本兵は何人いたのか。

五、六万体もの死体が骨になるまでにどのくらいの時間がかかったのか。また六万体もの人骨を揚子江に流すために、どのくらいの日本兵がどのくらいの時間をかけたのか。



更に、数時間にわたる機銃掃射の音が夜間に下関で鳴り響けば、安全区にいた安全区委員会のメンバーなど誰かが気づいたはずだが、他に傍証は存在するのか。この疑問に、本〈証人〉を採用した告発側は、答えねばならない(安全区委員会の記録には、この時期に日本軍によって殺された中国人の数は十四人と記録されている)。


こうした【反対尋問】を想定すれば、この証言に証拠としての立証能力を認めるのはほとんど不可能だ。中国側が懸命に集めて、ようやく採用した証言でさえ、かくもいい加減なのである。ほかも推して知るべしであろう。「十九万人殺害」の根拠たる中国側証言に【証明力】はもとより【証拠能力】すらない。

http://www.ne.jp/asahi/unko/tamezou/nankin/alleged/chapter2-1.html#chapter2-1-2

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