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冨田メモの徹底検証1:『輪ゴムのメモ』を糊付けして手帳に貼ったのは誰だ?




■冨田メモの徹底検証
http://homepage2.nifty.com/khosokawa/opinion08k.htm#_第2章_公開の経緯と報道の結果


第2章 冨田メモ公開の経緯と報道の結果

(1)意に反した公開

(略)

 日経が富田メモを入手した経緯と提供者については、『週刊文春』が8月3日号に取材記事を載せている。

 それによると、作家の丸谷才一氏が3年ほど前、富田夫人の知子氏から日記を編集したものを見せられ、出版する価値があるか判断して欲しいと頼まれた。丸谷は、「差し障りがなくなったら、すぐに出版できるようにしておいたらいい」とアドバイスしたと言う。

 今回の記事をスクープした井上亮記者は、かつて宮内庁を担当し、富田やその家族と親交を深めていた。富田は、平成15年11月に亡くなった。その後、記者は平成18年に、地方勤務から再び宮内庁の担当に戻った。その後、富田家と接触を続け、5月に遺族から日記と手帳を託された。そして、秦郁彦氏・半藤一利氏・丸谷才一氏らに取材を行い、7月20日のスクープ記事となったということらしい。



 これが事実だとすると、夫人は富田の意思に反して、日記・手帳を公開したのであり、さらに出版まで考えていたことになる。宮内庁長官という富田の職務の重大性を理解していれば、守秘義務にかかわる私的記録の公開を図ったのは、安易な判断だった。また、この記録を目にして、公開を示唆・協力した人たちも見識が疑われる。



(2)4月28日のメモを貼付したのは誰か


 富田の日記・手帳の所有権は、知子夫人及び富田家にある。夫人は、富田資料を日経に預け、日経は「報道の自由」をもって、これを公開した。資料に関して多くの疑問がある。日経には、その疑問に答える説明責任がある。中でも、富田メモは、もともと日記に貼り付けてあったのか、それとも後から第三者が糊付けしたものなのか。これは重大な疑問である。

 もし第3者が貼付したのであれば、内容に関わることにも捏造や作為がされている可能性がある。



 『週刊文春』8月3日号の記事は、「半藤氏によれば、手帳に貼ってあるメモは靖国のくだりだけでなく『あちこちにメモが貼られていた』という。」と書いている。しかし、問題の4月28日の貼付メモについて、『AERA』7月31日号は、次のように伝えている。

 「富田氏が03年11月13日に亡くなった後、ベッドでふさがれた戸棚の中に、40冊から50冊の日記やメモが残されていたのを妻が見つけた。一部は一周忌の際に故人をしのぶCD-ROMに収めて知人等に配ったが、戸棚に立ててあった日記帳の上に輪ゴムでまとめて載せてあったメモについて妻は言った。『何が書いてあるかわからないから、そのCD-ROMには入れなかった』。昨年秋ごろ、日経新聞の記者が久しぶりに自宅にやってきた。懐かしさも手伝って、一周忌のCD-ROMを見せ、
日記の現物と自分も読んだことのない『輪ゴムのメモ』を手渡したという。(略)今回の昭和天皇の発言はこの中にあった」

 ところが、日経の7月20日の記事は、「靖国神社についての発言メモは88年4月28日付けで、手帳に貼り付けてあった」という。この説明と、富田夫人の話は、食い違っている。夫人は自分も読んだことのない「輪ゴムのメモ」を手渡し、今回の昭和天皇の発言はその中にあったというのだから。

 そこから、4月28日のメモは、日経の記者が貼り付けたのではないかという疑惑が生じているのである。日経が8月3日から「昭和天皇との10年 富田メモから」と題して行なった連載では、糊付けの疑惑について一切触れていない。頬かむりのつもりだろうか。

 一体、富田メモは、もともと日記に貼り付けてあったのか、それとも後から第三者が糊付けしたものなのか。評論家の上坂冬子氏は、月刊『正論』10月号に、「『富田メモ』、夫人を訪ねて」と題した一文を載せた。氏は、富田夫人を訪問し、直接富田メモについて、話を聞いたのである。
夫人から聞いたところに基づき、上坂氏は次のように書いている。
 「日記の種類は二つあって一つは家庭内での出来事も克明に書いた日記帳、もう一つはメモと手帳をゴムで括ったものが二束だったという」「日記帳はさておき、ゴムで括った手帳のほうは殆ど手をつけずに同じところに放置してあったのを、そのまま記者に渡したという。メモについては用紙もバラバラで扱いにくかったため一度も読んだことはなかったそうだ。内容を知らぬまま渡したその束の中に、話題となったメモがあったものと思われる」。


 富田夫人は、『AERA』に語ったことと基本的に同じことを、上坂氏に語っている。富田夫人の語ることが事実であれば、日経の記者は、富田の日記に、バラバラだったメモを糊付けしたことになる。これは、資料の改ざんである。この疑惑が晴れなければ、冨田メモは、「第一級の史料」どころか、史料として扱うことすらできないものなのである。

 貼付の目的は何か。
また、日時の異なるものを貼り付けたり、順番を変えていたり、間を抜いたりなどの作為はないのか。事の重大性はいくら強調しても強調しきれない。

 一旦公開した以上、富田夫人と日経新聞社は、すべての事実関係を明らかにすべきである。

南京虐殺は嘘37 嘘吐き婆夏淑琴と嘘吐き宣教師マギー?

マギーという米国人宣教師で、安全区国際委員が作り上げた1人の支那人嘘吐き婆の話。



――――――
マギー牧師の解説書

 フィルム四
 一二月一三日、約三〇人の兵士が、南京の南東部にある新路口五番地の中国人の家にやってきて、なかに入れろと要求した。戸は馬というイスラム教徒の家主によって開けられた。兵士はただちにかれを拳銃で撃ち殺し、馬が死んだ後、兵士の前に跪いて他の者を殺さないように懇願した夏氏も撃ち殺した。馬夫人がどうして夫を殺したのか問うと、かれらは彼女も撃ち殺した。
 夏夫人は、一歳になる自分の赤ん坊と客広間のテーブルの下に隠れていたが、そこから引きずり出された。彼女は、一人か、あるいは複数の男によって着衣を剥がされ強姦された後、胸を銃剣で刺され、膣に瓶を押し込まれた。赤ん坊は銃剣で刺殺された。
 何人かの兵士が隣の部屋に踏み込むと、そこには夏夫人の七六歳と七四歳になる両親と、一六歳と一四歳になる二人の娘がいた。かれらが少女を強姦しようとしたので、祖母は彼女たちを守ろうとした。兵士は祖母を拳銃で撃ち殺した。妻の死体にしがみついた祖父も殺された。二人の少女は服を脱がされ、年上の方がニ、三人に、年下の方が三人に強姦された。その後、年上の少女は刺殺され、膣に杖が押し込まれた。年下の少女も銃剣で突かれたが、姉と母に加えられたようなひどい仕打ちは免れた。
 さらに兵士たちは、部屋にいたもう一人の七、八歳になる妹を銃剣で刺した。この家で最後の殺人の犠牲者は、四歳と二歳になる馬氏の二人の子どもであった。年上の方は銃剣で刺され、年下の方は刀で頭を切り裂かれた。
 傷を負った八歳の少女は、母の死体が横たわる隣の部屋まで這って行った。彼女は、逃げて無事だった四歳の妹と一四日間そこに居続けた。二人の子どもは、ふやけた米と、米を炊いたとき鍋についたコゲを食べて暮らした。
 撮影者は、この八歳の子から話の部分部分を聞き出し、いくつか細かな点で近所の人や親戚の話と照合し、修正した。この子が言うには、兵士たちは毎日やってきて、家から物を持って行ったが、二人の子どもは古シーツの下に隠れていたので発見されなかった。
 このような恐ろしいことが起こり始めると、近所の人はみな、難民区に避難した。一四日後、フィルムに映った老女が近所に戻り、二人の子どもを見つけた。彼女が撮影者[の私]を、死体が後に持ち去られた広々とした場所へ案内してくれた。
 彼女と夏氏の兄、さらには八歳の少女に問いただすことによって、この惨劇に関する明確な知識が得られた。このフィルムは、同じころに殺害された人の屍の群に横たわる一六歳と一四歳の少女の死体を映し出している。夏夫人と彼女の赤ん坊は最後に映し出される。
――――――



●検証

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賊が「なかに入れろ」と要求したら、馬氏が戸を開けた。
夏氏が犯人に懇願し馬夫人が犯人に質問しており、会話をしているのだから犯人は支那人。

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婦人が強姦された後、胸を銃剣で刺され、膣に瓶を押し込まれ、赤ん坊は銃剣で刺殺され、他の少女も刺殺され、膣に杖が押し込まれた…
犯行手口から犯人は支那人。

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戸を開けた者を直ちに撃ち殺す連中の前に別の者が跪いて他の者を殺さないように懇願したなんて有り得ない。

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8歳の子供が犯行日時は12月13日9~10時と認識し、更に14日間も経って記憶していたなんて有り得ない。

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事件後、向かいが日本軍の宿泊所になり、日本兵が家の庭を通る足音が聞こえる都度布団に隠れ、兵士達が毎日来て家から物を持って行ったのに、4歳の妹も泣き喚いたりせず二人で古シーツの下に隠れていたので発見されなかったなんて有り得ない。

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傷を負い這っていた8歳の夏淑琴が、銃殺された母の死体が横たわる部屋で、誰にも見つからず14日間も4歳の妹と生き続けたなんて有り得ない。

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12月1日に南京市長、12月8日に支那軍司令長官が、全市民に安全区に移るよう命令し、警察や支那軍による強制退去が行われ、12月13日には安全区以外の南京には誰も居なかった。
犯行は13日より前に支那軍か支那人盗賊が行った。

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仮に12月13日の犯行だとしても、南京は前夜から本格的な戦闘状態に突入しており、近所の連中が当該事件に恐れて避難したなんて有り得ない。

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安全区国際委員会のマギーが日本軍による犯行だと考えれば、現場の日本軍憲兵隊に通報しなければならなかったのに通報しなかった。



●結論

夏淑琴もマギーも大嘘吐き。




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