正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現
嘘の歴史に騙されるな!日本最優先政治、日本国民の生命と財産と自由を守る核武装、日韓断交を実現しよう!マスゴミの嘘や洗脳工作を許すな!がんばれ!日本国民党!
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本日、遊就館を見学した。『私たちは忘れない!』などに大感動した。



【注】
写真は他のHPより転載
(館内は撮影禁止)




本日、遊就館を見学した。
靖国神社には何十回も参拝したが、遊就館は玄関ホールしか行ったことがなかった。

靖国神社内外のイチョウがちょうど見事に色付いていた。
小雨降る中、午後1:30に入館した。

時代を追ってさまざまな資料や物品が展示されており、それぞれに解説が有る。

古代や中世に関するものも若干は有ったが、主に黒船来航以来の日本の近代史に関する展示と解説が多い。

私が最も感動したのは、2階の映像ホールで1時間毎に上映していた『私たちは忘れない!』という50分間の映画だ。
この映画は、日本の近代史を実に的確にまとめており、靖国神社の価値を再認識させてくれる。
戦争で逝った人たちは、「靖国で会おう!」と言って逝ったことを我々は絶対に忘れてはならないと改めて痛感した。

閉館は午後5:00なので、『私たちは忘れない!』を50分間観たら残りは約2時間半だ。
どれもこれも、じっくり見たい展示ばかりで最後は時間が足りなくなってしまった。

それでも、まもなく解説文が変更されると報道された問題の解説文はしっかり見つけることが出来た。


――――――
「ルーズペルトの世界戦略・アメリカの大戦参加」

大不況下のアメリカ大統領に就任したルーズベルトは、昭和十五(一九四〇)年十一月三選されても復興しないアメリカ経済に苦慮していた。早くから大戦の勃発を予期していたルーズベルトは、昭和十四年には、米英運合の対独参戦を決意していたが、米国民の反戦意志に行き詰っていた。米国の戦争準備「勝利の計画」と英国・中国への軍事援助を粛々と推進していたルーズベルトに残された道は、資源に乏しい日本を、禁輸で追い詰めて開戦を強要することであった。そして、参戦によってアメリカ経済は完全に復興した
――――――


この文章が以前から一部のアメリカ人から批判されていたのだが、今年、岡崎久彦氏までもが産経新聞の【正論】欄で批判し、靖国神社は速やかに解説文を変更することを決定した。

確かに、確証ではない推測が介在していると思うが、だからと言って絶対に間違っているとも言えない。
真実を述べている可能性は十分にあるのだ。
一部のアメリカ人の不評によって、いちいち解説文を変更する必要はないと思う。

アメリカだって日本に投下した原爆に、とんでもない解説文を付けているのだ。






◆「大東亜戦争 日本の主張」 別冊正論


◆それぞれの歴史観 東京大学名誉教授 小堀桂一郎

ところで遊就館の現代史図解の説明中に、「ルーズペルトの世界戦略・アメリカの大戦参加」との見出しの下、以下の如き一文があつた。

《 大不況下のアメリカ大統領に就任したルーズベルトは、昭和十五(一九四〇)年十一月三選されても復興しないアメリカ経済に苦慮していた。早くから大戦の勃発を予期していたルーズベルトは、昭和十四年には、米英運合の対独参戦を決意していたが、米国民の反戦意志に行き詰っていた。米国の戦争準備「勝利の計画」と英国・中国への軍事援助を粛々と推進していたルーズベルトに残された道は、資源に乏しい日本を、禁輸で追い詰めて開戦を強要することであった。そして、参戦によってアメリカ経済は完全に復興した 》

この説明には、緒果としてさうなった、といふ事態を捉へて、だからそれが最初から目指してゐた意図の実現だったのだ、との解釈に誘導されてゐるところがある。結果を見て動機を推してゐるといふわけである。

そこで、筆者の管見に入ったかぎりでもアーミテージ、タルポットといふ二人の米政府高官(共に元国務副長官)が遊就館を訪れて展示(英文説明がついてゐる)を見たらしく、この解釈に不満を述べてゐたが、岡崎久彦氏の紹介(十八年八月二十四日付産経新聞「正論」欄)によると歴史家のジョージ・ウイル氏の反応は非常に感情的で、かつ激しかつた様である。

日く〈これは唾棄すべき安っぼい(あるいは、虚飾に満ちた、不誠実な議論であり、アメリカ人の中で、アンチ・ルーズベルトの少数ながら声ばかりは大きい連中が同じようなことを言っていた〉とワシントン・ポスト紙上で論じてゐたといふことである。然しこの程度の感情的反駁に接して狼狽したりしてはいけない。



これは甚だ興味深いコメントである。即ちウイル氏のこの口汚い罵倒は、遊就館で接した展示が、氏の抱懐してゐる近代アメリカ史の中の極めて痛い所を、所謂図星を突いた説明だったからである。この判定が定着すれぱ、アメリカ合衆国建国以来の理想「アメリカの正義」の旗印も地に墜ちるだろう。

しかし、冷静に「それは違ふ」と受けとめた人ならぱ、決してこの様な口汚い言辞は弄さぬものだ。断つておくが、筆者が〈図星を突いた〉といふのは、筆者も同じく、結果を見て動機を推す、といふ推論法を用ゐるが故ではなく、人間(個人にせよ集団にせよ)の行為には全て、本来意図した目的とは全く異なる、若しくは関係のない結果を収穫してしまふことはよくある、その場合、その行為者は、招来してしまった結果を以て、それが本来の動機だつたのだらうと推測される「誤解」を避けることはできない、との諦観に似た認識がある故である。



そして我が日本の現代史は利害の相反する相手国から実に屡々この誤解を受けて来た。早い話が、大東亜戦争に於ける東南アジアの欧米植民地の解放といふ見事な成果を指して、「共同謀議に発する侵略戦争の成功である」と断定されたことなどは正にそれである。

然し我々はその誤解への不満の故にアメリカの歴史教科書を書き換へよなどと言ったことはない。只管現に斯うしてその誤解を解くための論証作業を積み重ねてゐるだけである。国際間の戦争の如き複雑な間題についてはそれぞれの当事国にその国固有の歴史解釈があつてよいのである。

ウイル氏の罵倒に接すると、筆者は又改めてヘレン・ミアーズのあの洞察の正しさに感嘆の念を覚えずにはゐられない。日く、〈我々は日本を有罪として非難するくせに、それと同じ行動を我々自らが行ふ場合には、それを犯罪とは考へないのである。これでは正義どころの話か、まさにリンチである〉。

靖国神社遊就館課は傷つけられたウイル氏の愛国的感情を尊重して、その説明文に修訂を施した由である。その結果どの様な記述になったかを筆者はまだ確認してゐない。然しここで示された日本的寛容は、それはそれでよかつたと思ふ。

この言論戦の結果は我々の小さな敗北であるが、決して致命的なものではなく、時にとつてこのくらゐの譲歩はしておいてもよいであらう。ただこの前例が後に尾を曳いて又次々と同じ様な要求と妥協の連鎖を繰返す様なことだけは心して避けなければならないが。



而して、百年とは言はず、あと数年か十数年後には、あの遊就館の歴史解釈の方がやはり正しかったのだ、との見方が勝を占めることになるかもしれないのだ。もはや如何にも紙面が尽きたので、結びに同じ遊就館の沖縄作戦の部に飾られてゐる、楠木正成の旗印なる「非理法権天」の五文字に言及しておかう。


この五文字に最低限度の説明をつけておくとすれぱ、人と人との間の対立に於いて、個人対個人の次元では「理」は常に「非」に勝つ。又必ず勝たしめねぱならない。然し、個人の「理」は社会の「法」の前では、敢へて自らを枉げてこれに妥協せねばならぬといふことも起る。

では此世で最も強いのは「法」であるか。否、「法」を作ったり廃したりする力は国家の持つ「権」にある。それならぱ国家の根拠たる「権」同士の争ひは如何にして決着をつけるのか。それは百年後の歴史の判定に委ねるより他ない。

即ち同時代の人間の限られた知見を以てしては判定のつかぬ勝敗を、古人は「権」の上なる「天」に委ねるといふ形で敬度にも自らの判定を放棄したのである。是に由って此を看れば、百年戦争としての我々の思想戦の旗印には、この五文字が最も適しいであらう。 (P86~P87)






追記
時節柄やはり硫黄島の戦いの展示場所で足を止めている見学者が多かった。

南京虐殺は嘘36 スマイス調査はインチキ調査3 農村調査も明らかなインチキ

スマイス調査の農村部調査は、農村部の人口を推定し、それに死亡率をかけて死亡者数を推定した。
しかし、算定の基に使用された人口は、1932年に行われた調査による南京農村部の人口(107万8千人)であり、1937年11月から12月にかけて支那軍が行った清野作戦によって所によっては無人と化すほど大幅に減少した当時の南京農村部の人口とは大きくかけ離れて多いものだった。
したがって、その1932年の人口(107万8千人)に死亡率をかけて算出された死亡者数は、1938年春に南京農村部で死亡した実際の人数より遥かに多い数字となった。

当時の南京農村部の人口は不明だったが、1932年に調査した南京農村部の人口107万8千人よりは大幅に少なかったことは間違いない。

つまり、スマイス調査の農村部調査の総人口
【農村部調査の総人口=バックの人口データ×(1-不在率)】
は全く信頼できないデータだった。

そうなると、スマイス調査の死亡者数【農村地帯の100日中の死亡率は2.9%だから「107万8千人×2.9%」で死亡者数3万1千人】も自動的に出鱈目ということになる。

さらに、病死者率の0.38%も根拠薄弱で、もっと病死者率は高かったかもしれない。

さらに、その上、死因が暴行による死者についても、全てが支那軍や不逞支那人による仕業と考えられる。

このように、スマイス調査なんて、とても使えない出鱈目のインチキなのだ。

スマイス調査(農村部)の出鱈目ぶりは、以下に示す『南京事件の日々――ミニー・ヴォートリンの日記』中にある「句容県」に関する記述との対比だけでも明らかだ。
――――――――
【『南京事件の日々』:12月6日付ミニー・ヴォートリンの日記】
UP特派員のマクダニエルがきょう話してくれたところでは、きのう句容へ行ってみたが、人が住んでいる村はただの一つもなかったそうだ。中国軍は村びとを一人残らず連れ出し、そのあと村を焼き払っているのだ。まったくの「焦土作戦」だ。農民たちは城内に連れてこられるか、そうでなければ浦口経由で北方に追いやられている。
――――――――
【スマイス調査・南京地区における戦争被害】
(県名)句容
住民総数  227,300人
死因・暴行の総数 8,530人 (男6,700人・女1,830人)
――――――――

このように、1932年に行われた人口調査の人口に出鱈目な不在率を掛けて当時の人口を推定したため、支那軍の清野作戦によって無人(人口0人)と化した句容で、なんと8,530人が日本軍によって虐殺されたことにされてしまった。

サンプル調査で不在率を算定し、1932年Buck調査の人口(107万8千人)に不在率を掛けて1938年春の南京農村部の人口を推定する方法が如何にインチキだったかが良く分かる。
大都市の近郊や周辺地域というのは、中心部に近ければ近い程多くの住居が在るものだし、中心部から離れれば殆ど道路沿いにしか住居はないものだ。
支那軍によって「清野」「焦土」にされたのは、南京城壁の周囲1~2キロにある居住区全域と南京城から半径16キロ以内にある道路沿いの村落と民家だから、1932年Buck調査の総数にいい加減な不在率を掛けても全く意味がない。


(参考)

スマイスの農村部調査の手順は、
(1)サンプル調査で不在率を算定
(2)1932年Buck調査の総数に不在率を掛けて人口を推定
(3)更に、推定人口に死亡率を掛けて死亡者数を推定

しかし、この推計方法が成り立つのは母集団に大きな変化が無い=南京農村部の人口が1932年調査時点から変化していない場合だけであり、1937年11月から12月に支那軍によって行われた清野作戦で大幅に減少した後の南京農村部の人口や死亡者数を推定するのは無理。








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