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【詳説・戦後】第3回 憲法公布 満60歳(2007年5月5日産経新聞―3)■悲願引き継ぐ 安倍晋三首相■国民投票、早くても21年■安倍首相の憲法改正に関する発言・【憲法改正をめぐる主な動き】

【詳説・戦後】第3回 憲法公布 満60歳(3)
2006/11/02, 産経新聞


■悲願引き継ぐ 安倍晋三首相

 安倍晋三首相の憲法観は、祖父の岸信介元首相の自主憲法論と極めて近い。
 生前、岸氏は「占領軍から威迫を受けて、憲法を採用するよう求められた。日本の歴史や伝統を無視し、あらゆる権威を失墜させるため、国際法でも国際慣行でも禁止されている占領中の憲法改正を日本に押し付けたのが当時の実情」と説き、「我々は自らの手で、日本人の魂を打ち込んだ自主憲法を制定しよう」と訴えた。
 安倍首相も平成16年2月のインタビューで「できたものが良ければいいという人もいるが、国の基本法の制定過程にはこだわらざるを得ない」と明言。著書「美しい国へ」(文春新書)では「連合軍の最初の意図は、日本が2度と列強として台頭することのないよう、その手足を縛ることにあった」と指摘。10月31日の米CNNテレビなどのインタビューで「自民党総裁任期は3年で2期まで。任期中に憲法改正を目指したい。時代にそぐわない条文として、典型的なものは9条だ。日本を守る観点や、国際貢献を行っていく上でも改正すべきだ」と、任期内の憲法改正を目指す考えを明確にした。


 ■国民投票、早くても21年 

 現時点で憲法改正の見通しは立っていないが、どんなに早くても実現は平成21年以降になる。
 これは、憲法改正に必須の国民投票の制度が未整備なのも大きく影響している。衆院憲法調査特別委員会(中山太郎会長)では、国民投票法案の与党案、民主党案の審議が始まったが、どちらも施行は法律の公布から2年後と定めている。さらに、憲法改正案の国会発議から国民投票まで60~180日間の周知期間があるため、どんなに早くても国民投票の実施は21年以降になる。
 国民投票関連法案が成立すれば、次の国会で、衆参両院に常設の「憲法審査会」が置かれる。審査会は憲法改正案の審議を行う権限を持つが、衆院憲法特別委の質疑で自民党側は、審査会発足後、2年ないし数年間は審議は調査にとどめ、改正案の審議は行わないことを“約束”している。
 国民投票法案は投票年齢などをめぐって与党と民主党の妥協が成立するか見通しが立っておらず、今国会で法案が成立するか不透明だ。このため21年中に憲法改正に関する国民投票が実施される可能性は低く、自民党は当面、昨年まとめた新憲法草案の検証作業を進める方針だ。森清・元自民党憲法調査会副会長は「新憲法草案は不十分な内容で、党内の意識を改革する必要がある。首相が(改正に)5年かけると言ったのはよかった」と語る。


■安倍首相の憲法改正に関する発言

 【自民党幹事長時代】
 平成
 16年2月3日 「(改正すべき)理由は、3つある。現行憲法は占領下、憲法の素人だったGHQの若いスタッフが極めて短期間に作り上げた。できたものが良ければいいという人もいるが、国の基本法の制定過程にはこだわらざるを得ない。2つは制定から半世紀以上が経過し、明らかに時代にそぐわない条文もある。新しい憲法を自分たちで書き上げていこうという精神こそが、新しい時代を切り開いていく力になるからだ」(産経新聞のインタビュー)

 【官房長官時代】
 18年9月1日 「戦後レジーム(体制)から、新たな船出をすべきだ。21世紀にふさわしい国のあり方を示す新憲法制定のためリーダーシップを発揮していく」(自民党総裁選の出馬会見)
 9月11日 「(憲法改正は)場合によっては5年近くのスパンも考えなければならない。国民的な議論が進み、コンセンサスを得る目安がつけば前倒しを考えるが、拙速でできるものではない。総裁としてコンセンサス作りでリーダーシップを発揮していきたい」(日本記者クラブでの総裁選候補者討論会)

 【首相就任後】
 9月29日 「日本が占領されている時代に制定され、すでに60年近くがたった。与野党で議論が深められ、方向性が出ることを願っている」(所信表明演説)
 10月3日 「憲法改正の目的が海外で戦争をする国をつくることとの批判は、まったく当たらない」(衆院本会議での答弁)



【用語解説】自民党新憲法草案

 自民党が立党50年の平成17年秋にまとめた憲法改正案。主要政党が初めて条文の形でまとめた憲法改正案で、前文と10章105条で構成。交戦権否認の現9条2項は削除し、国防と国際協力、災害派遣など公共の秩序維持が任務の自衛軍の保持を明記。集団的自衛権の行使も容認した。環境権など新しい権利を創設し、憲法改正要件は緩和した。前文で国民が「国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務」を持つとしたが、公明党や民主党に配慮して、中曽根康弘元首相が中心になってまとめた前文原案にあった日本の歴史、伝統、文化の要素を削った。このため「保守らしさを欠く」と自民党内からも批判がある。自民党憲法審議会は新憲法草案の検証作業を進める方針だ。



【憲法改正をめぐる主な動き】

 昭和
 21年 2月 GHQが総司令部案を日本政府に提示
    11月 日本国憲法公布
 22年 5月 日本国憲法施行
 27年 4月 独立回復
 29年 3月 自由党憲法調査会(岸信介会長)初会合
     9月 改進党憲法調査会(清瀬一郎会長)が憲法改正を求める報告をまとめる
    11月 自由党憲法調査会、憲法改正要綱をまとめる
 30年 2月 衆院選で憲法改正を公約とする日本民主党が第1党
     7月 自主憲法期成議員同盟結成
    11月 保守合同で自由民主党が誕生
 32年 8月 岸首相が内閣に「憲法調査会」を設置
 39年 7月 憲法調査会が改憲論と改憲不要論を併記した最終報告書を池田勇人首相に提出
 44年 5月 自主憲法制定国民会議(岸会長)が発足
 47年 6月 自民党憲法調査会が「憲法改正大綱草案(試案)」を作成
 55年 8月 奥野誠亮法相が衆院法務委で自主憲法制定について「そういう空気が国民の間から生まれてくれば望ましい」と発言、野党が批判
 平成
 5年  4月 自主憲法期成議員同盟・同制定国民会議が日本国憲法改正草案まとめる
    12月 細川護煕内閣の中西啓介防衛庁長官が現憲法を批判、自民党の追及を受け引責辞任
  9年 5月 憲法施行50周年を機に超党派の憲法調査委設置推進議員連盟(中山太郎会長)が発足
 10年12月 民主党憲法調査会が発足
 11年 8月 小沢一郎自由党党首が「文藝春秋」9月号で憲法改正試案を公表
    12月 公明党憲法調査会が発足
 12年 1月 衆参両院の憲法調査会で論議開始
 14年 7月 民主党憲法調査会が「創憲」を視野に入れた報告をまとめる
 15年 8月 小泉純一郎首相が山崎拓自民党幹事長に17年11月までに憲法改正試案をとりまとめるよう指示
 16年10月 公明党が自衛隊の存在認定などを憲法9条に追加する是非を「加憲」論議の対象とする運動方針を採択
 17年 4月 衆院憲法調査会が9条を含む憲法改正の方向性を明示した最終報告書を議決
     9月 衆院選で自民、公明両党の与党が初めて衆院で憲法改正発議に必要な3分の2ラインを上回る。衆院憲法調査特別委員会が発足
    10月 自民党新憲法起草委員会(森喜朗委員長)が「新憲法草案」を、民主党の旧民社系議員らによる「創憲会議」が新憲法草案をまとめる。
        民主党が憲法提言を発表、条文化は見送る
 18年 6月 衆院憲法調査特別委で国民投票法案が審議入り
     9月 安倍晋三首相が就任会見で「(改正を)政治スケジュールにのせるべくリーダーシップを発揮する」
    10月 自民党が党憲法調査会を憲法審議会に格上げ

【詳説・戦後】第3回 憲法公布 満60歳(2007年5月3日産経新聞―2)■麻生太郎外相 「吉田は改正を考えていた」

【詳説・戦後】第3回 憲法公布 満60歳(2)
2006/11/02, 産経新聞


■麻生太郎外相 「吉田は改正を考えていた」

 日本国憲法制定時の首相で、戦後保守政治の潮流をつくった吉田茂元首相の憲法観について孫の麻生太郎外相に聞いた。


 --昭和30年の保守合同では理念的な軸に憲法改正があった

 「吉田は保守合同時には自民党に参加しなかった(のち入党)が、日米安保、軽武装、経済復興最優先の考えだった。岸信介さんは自主憲法制定、自主防衛、対米自立という路線だった。当時の世論は憲法改正への志向は強かったと思う」


 --吉田元首相は憲法改正に反対だったのか

 「吉田は日米安保条約改定に賛成だったし、岸首相と結構会っていた。私は何回かその現場にいたことがある。ずっと座っていたわけじゃないが、そこで自主憲法の話やらなにやらしているのを聞いた。自主憲法制定に吉田は反対じゃ全くなかったね。『あのとき(=現憲法制定時)は、国体護持が最大の課題だったから、あれ(現憲法)をのむしかなかった。今はもう独立したんだから』というんだ。細かなところまでは記憶がないが、これだけは間違いない」


 --2人はどこで会っていたのか

 「新橋に『山口』という、今はなくなった料亭があった。そこじゃなかったかな。私は中学生か高校生ぐらいだった。ああいう所は(吉田元首相に連れられて)小学生ぐらいから行ってたから。渋谷の南平台の岸邸に吉田が行ったこともあるが、私は車の中で待っていた。結構、会談はやってましたね」


 --憲法改正はいまだに実現していないが

 「独立回復前の吉田の頭の中には2つあった。(戦前の)日英同盟を考えて、まず日米安保条約を結んだ。朝鮮戦争が始まって、アルゼンチンなんかが第3次世界大戦が始まると思って戦時体制を組むような時代だった。ソ連は朝鮮(半島)の次に日本に南下してくるぞと。これは(ロシア南下の脅威があった)明治時代と同じだから、日英同盟ならぬ日米安保だ。それと独立だ。この2つが優先だった。吉田は、独立さえすれば都合のいいように憲法を改正すればいいさ、と思っていたろうね。それが今日まで改正できなかったのは、冷戦が激しくなって国防費にカネを取られては復興できなくなる、という風潮になった。また、経済成長がうまくいき、憲法や教育といった国の根幹にかかわる話より、経済へ国民の関心が移ったからじゃないか」


 --最近、国民投票法案の審議が始まるなど憲法改正に向けた動きが進みだした

 「時代が変わったんだよ。戦後の憲法のおかげで戦争がなかったなんて言っている人がいるが、全然そう思わない。たまたま国際情勢がそうなっただけのことだ。いかにも英文和訳っていう文章ではなく、憲法は、美しい大和言葉、正しい日本語にしてもらいたい。明治憲法をつくるとき、欧米と違ってキリスト教の道徳がないのを理由に、伊藤博文が断念しかかった。『五箇条の御誓文』を起草した由利公正は『日本には皇室がある』といって、欧米憲法の根幹であるキリスト教の道徳律に代わる教育勅語ができた。天皇陛下の命令ではなくて、陛下も国民と一緒に『庶幾ふ(こいねがう)』もので、明治憲法のバックボーンとなった。これが戦後に廃止され、無味乾燥な教育基本法ができた。今、教育基本法の改正から手をつけているのは、正しいアプローチだ。教育基本法をきちんとして、その上で憲法を、というのは明治の例から見ても正しいと思う」


【プロフィル】吉田茂
 よしだ・しげる
 首相として昭和21年の大日本帝国憲法改正案の国会での審議、改正、同年11月3日の公布、翌年5月3日の施行に携わった。
 吉田氏は24年4月5日、衆院本会議で「憲法改正の意思は、今日において持っておりません。今日われわれの念願いたすところは、経済の復興であり、日本の再建であるのであります」と答弁。独立回復後の29年5月28日の参院地方行政委員会でも「基本法である憲法は軽々しく改正いたすべきものではない。従って私は憲法を改正する今日意思はございません」と述べた。
 また、32年12月18日の内閣憲法調査会総会に「憲法改正は時期尚早」とする「吉田書簡」を寄せている。

【詳説・戦後】第3回 憲法公布 満60歳 (2007年5月3日産経新聞―1)■岸信介元首相…「独立国」へ改憲目指す■日本国憲法の制定過程

【詳説・戦後】第3回 憲法公布 満60歳(1)
2006/11/02, 産経新聞 

 あす3日は日本国憲法が公布されて満60年にあたる。占領下、連合国軍総司令部(GHQ)主導で誕生した現憲法は、その後改正の機運が何度か盛り上がりながら一度も改正されていない。「詳説・戦後」第3回では、憲法改正に執念を燃やした安倍晋三首相の祖父、岸信介元首相の足跡をたどるとともに、現憲法を拒否できなかった吉田茂元首相の憲法観について孫の麻生太郎外相に語ってもらった。


■岸信介元首相…「独立国」へ改憲目指す

 憲法改正を「政治スケジュールにのせるべくリーダーシップを発揮する」と明言する安倍首相の祖父、岸信介は日米安全保障条約を改定し、日米同盟の基礎を築いた。だが、昭和62年に90歳で亡くなるまで訴え続けた自主憲法制定の夢は果たせなかった。(敬称略)


 ≪巣鴨プリズン≫

 岸が自主憲法制定を自らのライフワークにしようと決意したのは、戦時中、東条英機内閣の軍需担当の閣僚だったため「A級戦犯」容疑者として収監されていた巣鴨プリズン(拘置所)の中だった。
 死を覚悟して入った巣鴨だったが、友人の弁護士、三輪寿壮(のち社会党衆院議員)らから現憲法の制定などの占領政策を断片的ながら聞き、「日本は骨抜きにされてしまう」と危惧(きぐ)する日々が続いた。
 戦況が悪化する中、東条首相と対立し、退陣のきっかけをつくったことが大きな理由となって不起訴となり、釈放された岸は占領終了後、政界に復帰。昭和28年暮れ、吉田から自由党憲法調査会長就任を要請される。
 岸は憲法改正に慎重とみていた吉田に「私は獄中を通じて新憲法はいかんと考え、憲法改正論者になったが、その私に憲法調査会長をやれとはどういう意味か」と迫った。吉田は「思うようにやったらいい。おれもいまの憲法は気にくわないけれど、あれをのむよりほかなかったのだから、君らはそれを研究して改正しなけりゃならん」と応じたという。
 岸が中心となって翌年、自由党の「改正要綱」(日本国憲法改正案要綱並びに説明書)を作成したが、その直後、保守合同の路線の違いから自由党を除名され、改憲派の鳩山一郎政権樹立に動いた。30年11月の保守合同で自民党初代幹事長に就任し、党の基本文書に「憲法の自主的改正」を盛り込んだ。
 岸が首相になった昭和32年から約30年間、秘書を務めた堀渉は「岸にとって、憲法改正は最大の政治目標だった。憲法改正の一点で保守合同をまとめあげた」と語る。


 ≪半世紀前の改正案≫

 では岸が中心となってまとめた自由党「改正要綱」とはどんなものだったのか。
 自民党は昨年、「新憲法草案」をまとめたが、岸の「改正要綱」と51年後の「新憲法草案」とは類似点も多い。
 現行憲法の戦争放棄や平和主義を維持しつつ「軍隊」(改正要綱)、「自衛軍」(新憲法草案)を持つ点や、平和のための国際協力、基本的人権を保障しつつ乱用の防止を求めた点のほか、憲法改正要件の緩和、憲法裁判所の否定-などが似通っている。
 その一方、自民党が検討しながらも公明、民主両党に配慮して「新憲法草案」に盛り込むのを見送った“保守らしさ”を「改正要綱」は備えている。
 前文に「歴史と伝統の尊重」を盛り込んだほか、天皇を「元首」と規定し、内閣の緊急命令権などの非常事態規定、国民が国防に協力する義務-を明記している。「新憲法草案」が衆参両院の対立を恐れて手を触れなかった参院改革も議員の一部推薦制や間接選挙制の採用を打ち出していた。


 ≪安保を先行≫

 昭和27年4月、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本は独立を回復した。しかし、「日本の独立を守った明治維新の先輩たちの懸命な努力をよく口にしていた」(堀)という岸は、本当の独立国に戻ったとは考えていなかった。
 首相になった岸は、32年4月、衆院予算委員会で「日本民族の独立、自由の意思からいわゆる自主憲法を制定すべきであるのが持論だ。9条も含めて自主憲法の制定の際には考えなければならぬ」と答弁した。
 しかし、自民党は国会で憲法改正発議に必要な3分の2の議席を持てなかった。まず岸が取りかかったのは、日本防衛の義務を負わない米軍に、内乱の鎮圧まで認めた旧日米安保条約改定だった。
 岸が亡くなるまで会長として改憲運動の拠点とした「自主憲法制定国民会議」の専務理事、清原淳平は、晩年の岸から「旧安保条約は不平等条約で日本は属国だった。だから改正したんだ」と聞かされた。「9条をみても独立国の憲法じゃないとわかる」と折に触れ語った岸にとって「憲法改正と安保改定は完全にリンクしていた」(清原)のだ。


 ≪タブーの時代≫

 しかし、激しい安保闘争の結果、岸は安保改定実現と引き換えに退陣。続く池田勇人、実弟の佐藤栄作ら歴代首相は、憲法改正に取り組むことはなく、閣僚が憲法改正を口にすることすらタブーとなっていった。岸が改憲機運の高まりを目指して作った内閣憲法調査会も、39年の池田内閣への最終報告書で、憲法改正を打ち出すことはなかった。
 岸にとって晩年は憲法改正運動の「冬の時代」(清原)だった。
 自民党の59年度運動方針案から「自主憲法の制定」が削除され、岸が幹事長の田中六助に電話でねじ込んで復活させる一幕もあったが、田中は会見で「自主憲法といってもお経の文句のように木魚をたたいていればいいんじゃないの」という始末だった。
 そういった冬の時代でも憲法記念日の早朝、女婿の安倍晋太郎邸で、大会挨拶文を大声で読み上げ、添削する岸の姿があった。岸は58年5月3日、自主憲法制定国民大会で「鳩山、岸内閣の後の内閣はいずれも憲法問題には逃げ腰で、残念でたまらない。若い方々に運動の第一線に立つことをお願いする」と、若い世代への期待を口にするようになった。
 岸の死から約20年後、安倍晋三ら「若い世代」が積極的に憲法改正に取り組んでいるのは、決して偶然ではない。


■日本国憲法の制定過程

 連合軍による日本占領が始まった直後の昭和20年10月、連合国軍総司令部(GHQ)のマッカーサー総司令官は幣原喜重郎首相らに憲法改正の必要性を示唆した。政府は同月、憲法問題調査委員会を設置し、大日本帝国憲法の諸条項を踏襲した改正要綱を21年2月、GHQに提出した。マッカーサー総司令官は受け入れを拒否、独自の草案をGHQ民政局に作成させた。
 GHQは象徴天皇や戦争放棄を盛り込んだマッカーサー草案を10日で完成させた。政府は再考を求め抵抗したが結局、閣議でGHQ草案に沿う政府案作成を決定。21年3月にGHQとの協議に基づいた改正草案要綱を発表。5月の吉田茂内閣の発足を経て、憲法改正案を第90回帝国議会に提出した。約4カ月間の審議を経て現憲法は可決成立し、11月3日に公布、22年5月3日に施行された。
 吉田氏が終戦連絡中央事務局次長に抜擢し、GHQとの折衝にあたった白洲次郎氏は21年3月の手記で、「斯クノ如クシテ敗戦最露出ノ憲法案ハ生ル 『今に見ていろ』ト云フ気持抑ヘ切レス ヒソカニ涙ス」と記している。

生活圏に核シェルターを実現すべき ■地下鉄や小中学校を避難施設に 【正論】菊竹清訓

生活圏に核シェルターを実現すべき

■地下鉄や小中学校を避難施設に

≪欧州都市の備えを見習う≫

 北朝鮮が核実験をした。それならば、わが国は緊急にその対応策として、主要施設にシェルターを準備せざるを得ない。

 かつて、米ソ冷戦下のヨーロッパでは、パリもロンドンもドイツもスイスも、地下シェルターを準備していた。

 スイスのある国立病院では、約30分ですべての人が地下に移動可能だということだった。病院の地下化によって、医療施設内の患者や医者、看護婦から事務員まで避難できることを知って驚かされた。

 地下鉄の駅は周辺住民の避難場所として計画されているため、天井高や換気、避難経路についてもよく考えられていることがわかった。しかしわが国では、かつて東京都心部で起きた地下鉄サリン事件を思い起こしてみても、排気や電気照明などが改善されたかどうかはわからない。

 このサリン事件当時わたしはパリにいたが、新聞では当初からテロとして報道されており、不特定多数の市民を対象としたこの種の無差別攻撃には極めて厳しい処置をとるべきだと議論されていた。これが、人権がどうという弁護団の主張によって長期裁判となったことはいささか問題だと、パリの友人が述べていたのが印象深い。

 パリの新都心開発でできたデファンス地区では、中央地下鉄駅にシェルターとしては巨大すぎる空間がつくられており、戦争の恐怖がなくなった今でも、それは決しておろそかにされていない。

 大江戸線の新地下鉄駅の新設にあたって、委員として地下鉄駅のシェルター構想を述べたが、全く問題にされなかった。前大戦の空襲で多大な被害を受けた江東地区の歴史的体験は、一向に生かされず、周辺住民の避難を確保するシェルターなしに建設が進められた。日本の首都、東京の都心でもこの有様である。

 こういうことは、かねてより準備しておくべきもので、俄(にわか)にやろうとしてもなかなかできない。国になんでもやってもらおうとする官庁頼みの気風や、大都市に出稼ぎや勉学で集まってくる若者などは頼りにならない場合もある。地域を守るとか歴史を受け継ぐなどという気概は毛頭ないからだ。しかし、若者にはパワーと未来がある。


≪核攻撃を回避できる場所≫

 さて、核攻撃を回避できる場所は、例えば大都市東京でいうとどこにあるかを検討してみると、1つは戦争で攻撃された時の記録写真から推察できる。ヨーロッパのレンガや石づくりの都市と違って、日本の木造やコンクリート建築の被害状況を見れば、おおよそ見当がつく。原爆攻撃を受けた広島や長崎は他に例を見ないほど凄(すさ)まじく、一瞬の巨大な破壊力とそれに伴う高温火災による一面の焼け野原である。そのうえ、原爆症による過酷な死への過程が数十万の市民を襲う。これほど残酷な非人間的兵器はない。

 日本は唯一の被爆国であり、絶対に核戦争を回避すべきだというのが、前大戦から学んだ日本の立場で、安倍総理、麻生外務大臣の主張の原点である。

 前大戦後の米ソ冷戦時代には、欧米の各都市で、核攻撃を避けるためシェルターの開発が進められた。主要都市では、市民も一緒になって被害防止に取り組んできた。


≪ふるさと通りを活用する≫

 核攻撃を避ける方法として地下構造は有効と考えられている。都市では地下鉄やトンネル、郊外では山かげ、高速道路下などが挙げられる。

 日本の小・中学校は地域の中心にあり、地震の際の避難場所にも指定されている。コンクリート構造が多いので頼りになり、水や食糧、薬品などの保管場所としても、重要な役割を果たすことは間違いない。近年、児童数が減少し、学校の統廃合が検討されている例も少なくないが、核攻撃に対する避難場所として、高齢者・女性・子供たちが日頃から利用している施設をもっと本格的に整備することが、緊急に必要である。

 考えてみれば、児童の通学時の事故は地域で守るべきものである。竹下元総理が掲げた「ふるさと創生構想」において、ふるさと通りのまわりに公園や学校、ショッピングなどを配置する都市計画のインフラづくりが進められたが、いつの間にかなおざりになっている。ふるさと通りとは、市民生活の基本となる公園道路で、ここに並木をつくり、市民の安全を守り、共同の精神を育むものである。

 この中に、共同溝の整備と一緒にシェルターを考えるべきで、小学校と連携すれば、いっそう充実するだろう。市民も本気になって核シェルターに着手する時である。
 (きくたけ きよのり=建築家)

【正論】菊竹清訓 
<産経新聞> 2006年11月1日








核シェルターの問い合わせ急増! 普及の兆し 北実験で
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/9340694.html

「東京直撃」死者50万人 負傷500万人 対策次第で被害縮小 【核攻撃シミュレーション】....日本は核武装が必要だが、せめて核シェルターを!
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/9152378.html

核シェルターとMD。MDは役に立たないが、核シェルターは大いに有効。
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/4542490.html

核シェルターの有効性と必要性。地下なら爆心地でも生き残れる。コンクリートの壁だけでも生存可能。
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/4620686.html

核シェルターの有効性、地下に居るだけで生き延びる。スイスやスウェーデンやフィンランドでは全国民のための核シェルター有り。
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/4552978.html

生活圏に核シェルターを実現すべき ■地下鉄や小中学校を避難施設に 【正論】菊竹清訓
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/5024253.html

嘉手納基地/核シェルター/米軍の為
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/3550777.html

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