義和団事件
閑話休題。雨に煙る田園を後にして北京に到着。北京は埃と砂嵐の町、乾燥した平地と禿山の町、夏暑く冬寒い町である。黄海までは160キロ足らず。港は天津郊外の大沽である。
1900年の夏、事件が起きた。「義和団」という狂信的秘密結社が宣教師を殺害したことに触発され、中央政府の守旧派が義和団に加勢して外国人排斥を企てたのである。包囲された北京の公使館員の救出に、連合軍が大沽から北京へ進撃した。救出軍が到着する前にドイツ使節を含む多くの外国人が惨殺された。ところが救出軍を目にしたとたん、中国側は政府軍も義和団も守備を固めるどころか、算を乱して敗走した。事変後、平時における外国人殺害という、国際儀礼違反に対して賠償を課された。その7年後、アメリカは賠償金2千5百万ドルをアメリカ国内に学ぶ中国人学生の教育に活かした。ところで、西太后はじめ中国側は、連合軍が当然の措置として首都北京を永久に支配するものと覚悟していたが、思いもよらず赦免され、復権を許されたから驚いた。アメリカをはじめとする連合軍は「略奪蛮行」と非難された。中国人は「非常に寛大な措置」に大喜びした。進言を受けて屠殺を命じた当の西太后は「お構いなし」で済まされた。講和文は条約文書としては実に奇妙なものである。まず友好だの親善だの美辞麗句を長々と連ねた前文があり、続いて崇高な条文が来る。西太后以外の虐殺実行者には「清王朝の恵み深き特赦により自決を許」された。その他、外国人に「清朝の寛大さを示す」ための条文が作られた。
この事件の数年前(“後”の誤植だろうと思われる)までは一応友好的で宣戦布告することがなかったので、外国要人を襲い、武力紛争を起したことは忘れられ、中国人は「平和愛好者」との評価を取り戻した。メッキは剥がれるものである。1927年、同じような事件が南京で発生した。国民党の正式指令の下、小規模ではあるが、あの「北京の包囲と屠殺」が南京で起こったのである。この事件で殺害された者の中には英国領事館員も一人含まれていた。南京は北京上海間にあるから運良く当時英米の砲艦が近くにて、襲撃者を打ち払い、包囲されていた人を救出した。
ここ50年、中国で外国人の虐殺が起きるたびに「今ここにこのような蛮行は終わりを告げた。今後、中国人は平和を愛する責任ある近代国民になるのである。よって、以後、中国人に悪意を抱くことは不親切であり且つ不当である」と宣言する立派なアメリカ人が何人もである。が、こういう立派な連中は墓穴を掘っているようなものである。無知なアメリカ人は「このような残虐行為は無教養なものやごろつき連中が繰り返している仕業だろう」と思っているが、そうではない。1900年の義和団事件と同じく、れっきとした政府高官によって何度も繰り返されていることなのである。
第31代大統領ハーバート・フーバーは義和団事件の生き残りだそうである。事件当時天津にいたそうだ。
閑話休題。義和団の蜂起は「義和団の乱」と言われているが、私に言わせればネーミングミスである。というのは通常、「乱」は「現政府に対する反乱」という意味で使われる。ところが義和団事件ではあろうことか、当の中国政府自身が義和団の初期の勢いに乗り、同盟を組んだのであるから。
政府に後押しされた群集が、防禦が整っていない外国人居住地を襲い女子供までも殺害したとしても特段驚くことではない。確かに1927年の事件以来、大きなことは起きていないが、上海とて安全とは言えない。というのは、外国人は一箇所にまとまっているわけではなく、国際租界やフランス租界に散らばっていて、その周りには中国人が数十万もいるからである。ということは、一旦事が起こったら直ちに一塊になれる体制でないと(南京ではそれができたので助かったが)、砲火から守ることはできないということだ。
それにしても、なぜ中国人は外国人を虐殺したがるのであろうか。それは、外国人が裕福であるからである。また中国の指導層も同じで、略奪権を与えるのである。もちろん、中国軍が自国民つまり中国人を襲うことは日常茶飯事であるばかりか、殺そうと何しようとまったく平気である。外国人を狙うことはそう頻繁にあるわけではないが、やっても捕まらないと判断した時、やるのである。中国人に寛大な人が増えているから、ますます増長しているのである。
(P43~45)
『暗黒大陸中国の真実』ラルフ・タウンゼント著(1933年)
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